トランクは雄弁だ。
by Takanori Nakamura Volume 1

仕事がら、旅慣れたつもりではいるが、初めて滞在するホテルのチェックイン時は、今でも緊張する。僕は戦略的に、着慣れたスーツにする。ただし、カウンター越しに署名する袖口は、必ず本切羽のボタンを、わざと一つ外しておく。テーラーメイドであることを、さりげなく伝えるためだ。
(文=中村孝則 写真=藤田一浩 スタイリング=石川英治)
(2)ノー・ナイフ、ノー・ライフ。>>
<<(10)箱入りだから、こだわりも出る。
滞在中は相応な客として扱ってくれよな。僕からホテルへの暗黙のプレッシャーである。無造作な格好でチェックイン時になめられ滞在中、仕事に支障がでる羽目は、もう懲り懲りだからだ。誤解なきよう断っておくが、決して高級品で居丈高に圧力をかけるのではない。僕はスーツをこよなく愛していて、袖のボタンを外すのも、単なる自己満足の悦楽だ。
■物を語るのではなく、物に語らせる
かつて世界の一流ホテルマンたちの間で「紳士の正体はスーツの袖口で判断せよ」という裏ワザが、ひそかに伝授されていたそうだ(靴で判断なんて、素人レベルということらしい)。もっとも、最近は「失礼ながら、ボタン外れていますよ」と注意されるのが関の山だから、効果の程はわからない。
さておき、僕はホテル・ライフ自体が好きなので、ホテルを味方につけたいのだ。問題は、チェックインという限られた機会に、それをどうエレガントに伝えるかということ。12年以上使い込んだ英国製のヴィンテージ風トランクを愛用するのも、その一つである。「ご覧のように旅の初心者ではないですよ」。もう、無言の圧力である。物を語るのではなく物に語らせる、という知恵がこの年になってようやくできるようになった。
まだ駆け出しのころ、帝国ホテルの犬丸一郎さんに、旅の秘訣について質問したことがある。「その街の一番いいホテルの、一番安い部屋にしなさい」と犬丸さんはいう。「初めての街であれば、誰も君の素性は知らない。ホテルが君の信用になるはずだ」。ホテルでいいサービスを受けたいのなら「君自身を精いっぱいアピールしなさい」。言葉がおぼつかなければ、身だしなみや持ち物で一目置かせ、「トランクは雄弁だよ」と諭して下さった。
■使い込むことで、物を育てる
ちなみに、このトランクには記念に頂いた、ホテルや客船のステッカーを片っ端から貼り付けている。気がつけば、雄弁に語るどころか、トランクが旅のリアルな履歴書になってしまった。使い込むことで、物を育てるという骨董に共通するたのしみも、ひそやかな喜びである。
『伝説のトランク100 ルイ・ヴィトン』(河出書房新書)によると、かばんにホテルのステッカーを貼る習慣が始まるのは19世紀末だという。ステッカーは旅人が旅の自慢を誇るための流行だが、ホテル関係者にとっては別の重要な役割があった。貼る位置によって持ち主が「大変気前が良い客/不愉快で小うるさい客/不愉快ではあるが立派……」と、ホテル内部でスタッフが共通の暗号に使っていたそうだ。
ならば逆手にとることもできまいか。なんて邪心も芽生えそうだが、最近はステッカー自体が消滅しかけているから、そんな符丁も旅の麗しき追憶の一つとして、残るのみなのかもしれない。
コラムニスト。ファッションからカルチャー、旅や食をテーマに、雑誌やテレビで活躍中。著書に「名店レシピの巡礼修業」(世界文化社)など。
[日経回廊 1 2015年4月発行号の記事を再構成]
ワークスタイルや暮らし・家計管理に役立つノウハウなどをまとめています。
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