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福田粂蔵氏、一匹狼の「相場の達人」
市場経済研究所代表 鍋島高明

2018/1/13 5:30
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 日の出証券のルーツをたどっていくと福田粂蔵が明治22年に創設した公債や株式の売買を行う福田商店にいきつく。わが国初の株式取引所が東京、大阪に開設されるのは明治11年だから福田は仲買人の草分けの1人といえるだろう。

 明治時代の仲買人は正式の証券業者で、自己の計算で証券を売買すること、いわゆる相場を張ることもできれば、顧客から注文を受けて受託売買をすることもできた。しかし、当時、一般の人々の間には投資資金の蓄積が乏しかったため、証券売買をする人はごく限られていた。

 「そのため、受託売買による手数料収入に多くを頼ることはできませんでした。ですから勢い自己勘定による公債、株式の売買が中心とならざるを得ず、それだけに彼らは多くは一発勝負的な投機に自らを賭け、浮沈の激しい世界を生き延びていかなければならなかったのです。現在の証券会社とはおよそかけ離れた性格のものでした。そのうえ仲買人は、従業員(番頭、手代、少年店員)を市場代理人とすることは禁じられていました。つまり、すべてが主人の才覚ひとつにかかっていたのです」(日の出証券編「創業90周年記念誌」)

 店主みずから立会場に出て手ぶりで「売った」「買った」と叫び合っていたのだ。競争が激しく開廃業が頻繁に行われていた。

 福田粂蔵は明治22年28歳で福田商店を立ち上げ、大正10年に至るまでの33年間は個人商店の時代であったが、日清、日露両戦役、さらには欧州大戦下の株式相場の乱高下を乗り切ったのだから、その力量のほどが忍ばれる。福田とは一体、どんな人物だったか。

 「残念ながら現存する資料が乏しく、詳しいことはお伝えできませんが、彼は一代で相場哲学を極めた人物であったといわれています。“福田流”ともいうべき独自の相場観を編み出し、福田商店から有能な相場師が輩出したそうです。このように彼はまさに一匹おおかみでした。おそらく男性なら一度は憧れる生き方なのではないでしょうか」(同)

 同業者の間で福田は“相場の達人”と呼ばれ一目も二目も置かれていた。

 大正時代に入ると仲買の業務は多様化し、単に株や公社債の売買にとどまらず証券業者として引き受け業務も加わる。大正10年には福田商店も株式会社組織の福田粂商事に改め、呼称も仲買人から取引員に改められる。

 昭和11年、一匹おおかみを貫いた福田が他界する。あとは岡山県の倉敷紡績系資本を背景とする藤井竹一と大阪の加賀商店(証券業)の専務として証券界でその手腕をうたわれた上住卯一が遺業を継ぐ。太平洋戦争下の昭和18年、倉敷紡に代わって、当時、最重要顧客であった藤浪紡績社長の藤浪勝を迎え、福田粂商事を福田証券に改める。

 昭和21年、上住卯一は藤浪勝に後事を託して退社、同23年福田証券を藤浪証券に改称、藤浪は藤浪証券、藤浪紡績両社の社長を兼ねる。

 「藤浪は生来の証券取引に対するセンスに加えてリーダーとしての決断力にすぐれた人物でした。厳しい世相の中にありながらも藤浪社長のもと、確実に業績を伸ばしつつ見事に苦難期を乗り切ったのです」(同)

 昭和26年には大阪三品、大阪化繊両取引所の仲買人業務を営む藤浪商事を設立、業容拡大を図る。=敬称略

信条
・大胆であれ、謙虚さを忘れるな
・証券界とは相場哲学を学び、取引の技術を習得する“道場”である

( ふくだ くめぞう   生年不詳-1936 )
 明治22年28歳の時、福田商店を創設、大阪株式取引所(大株)の仲買人となる。大正10年福田粂商事株式会社(資本金100万円)に改組、同14年大株一般取引員となる。昭和11年他界、同18年藤浪紡績の藤浪勝社長が後任社長に就任、福田粂商事を福田証券と改称。同23年藤浪証券と再び改称。同33年大和証券と提携、大島治郎一が社長に就任。同36年日の出証券と改称。(写真は日の出証券編「創業90周年記念誌」より)

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