2019年4月26日(金)

湯川秀樹、原爆研究記す 終戦前後の日記公開

2017/12/21 20:44 (2017/12/21 22:19更新)
保存
共有
印刷
その他

日本初のノーベル賞受賞者の湯川秀樹(1907~81年)が終戦前後に書き残した日記を京都大が21日、初公開した。原爆研究に関わった記述がある一方、広島や長崎の原爆被害も詳細に記しており、専門家は、戦後平和運動に携わった湯川の歩みを知る記録として注目している。

湯川秀樹が終戦前後に書き残した日記の一部=京都大基礎物理学研究所提供、共同

湯川は原爆研究への関与を公的な場では認めていなかったが、45年6月に原爆開発についての会議に出席していたことが今回、本人の自筆記録で初めて裏付けられた。

日記は78年、京大理学部の戸棚の整理中に風呂敷包みから発見され、湯川の没後、遺族が大学に寄贈したノート15冊の一部。「研究室日記(日誌)」と題され、今回、45年分の3冊が公開された。

このうち、6月23日には「F研究 第1回打ち合わせ会、物理会議室にて」と記され、京都帝大(現京大)の同僚荒勝文策氏ら研究者計12人の名前があった。研究内容への言及はなかった。

F研究は海軍の依頼で荒勝氏を中心に進めていた原爆研究。湯川の関与は他の研究者の残した資料で分かっているが、原料不足などから基礎的な研究にとどまり、製造段階には程遠かったとされる。

日記ではF研究に関して、他にも2月、海軍の施設で会合があったことや、5月に戦時研究に決定したとの通知があったことが記載されている。

一方、広島への原爆投下翌日の8月7日には、「(新聞社から)広島の新型爆弾に関し原子爆弾の解説を求められたが断る」としている。原爆投下に関する感想はないが、戦後の9月6日には、「死者 広島7万名 長崎2万名」などと原爆の死傷者数や建物被害数を記している。

9月15日には「米士官2名教室へ来たので直ちに面会」と記述。戦時中の研究について聴取されたことがうかがえる。また、マッカーサー司令部に提出する研究に関する報告書の作成に忙しい日々を送っていたり(10月3日)、海外の研究者と原爆について論じたり(11月22日)していた。

日記を分析した小沼通二慶応大名誉教授は「日記に思いは書かれていないが、国が正しいと考えていた湯川の価値観が戦後になって変わったことが同じ頃に雑誌に書いた記事から読み取れる。45年に平和運動への道ができたのだと思う」と話している。日記は京大湯川記念館史料室のホームページで公開する。〔共同〕

春割実施中!無料期間中の解約OK!
日経電子版が5月末まで無料!

保存
共有
印刷
その他

関連キーワード

電子版トップ



[PR]

日本経済新聞社の関連サイト

日経IDの関連サイト

日本経済新聞 関連情報