笑いは文化、世界が舞台 漫才師 今くるよさん(もっと関西)
私のかんさい

2017/11/21 17:00
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 いま・くるよ 京都市生まれ。1970年、めおと漫才で知られる故・今喜多代さんに入門。73年に漫才コンビの今いくよ・くるよを結成し、80年代には漫才ブームの一翼を担った。84年に上方漫才大賞、86年に上方お笑い大賞を受賞。

いま・くるよ 京都市生まれ。1970年、めおと漫才で知られる故・今喜多代さんに入門。73年に漫才コンビの今いくよ・くるよを結成し、80年代には漫才ブームの一翼を担った。84年に上方漫才大賞、86年に上方お笑い大賞を受賞。

■ピンクや黄色、紫などの色柄にフリルのついた派手な衣装。躍動感あふれる動きと掛け合いで観客の笑いを誘う。漫才師の今くるよさんは京都市で生まれ育った。ベテラン女性芸人の笑いの原点は、高校時代の過酷な部活動での体験。漫才の相方だった今いくよさんとも、その当時に出会った。

6人きょうだいの末っ子として生まれ、幼いころから活発だった。近所の友達と日が暮れるまで、かくれんぼや缶蹴りをして遊ぶ毎日。中学で始めたソフトボールは高校でも続け、同級生のいくよさんとは部活動で仲良くなった。

正月でも休まず練習し、他校に遠征する道中も笑い一つ許されない部。緊張した雰囲気をぶち壊したいと思っていた3年生の時、いくよさんら2人と監督の目を盗み、遠征先の宿舎で二人羽織を披露した。監督のものまねもやってみせると、約20人の部員は腹を抱えて笑いころげた。いつもの切迫感から解放された皆の表情に「私には、これが向いてるんやないやろか」と思うようになった。

■高校卒業後、会社勤めを経て、1970年に吉本興業に入った。10年間の下積みを抜け出す起爆剤となったのが、腹を勢いよくたたいて観客の笑いを誘うギャグ。スポットライトの当たる場に立てたのは、笑いに厳しい目を持つ関西の人々のおかげだという。

会社の同僚が吉本興業が芸人を募集していると教えてくれたのが、お笑いの道に入るきっかけになった。いくよさんも誘ってオーディションを受けたが、自分だけ不合格。2人で担当者のところに押しかけ「なんで私だけ落ちたんや」と直談判した。「女の子は続かへん」と切り捨てられたが、体育会系の負けん気で「絶対に大丈夫です」と引き下がらず、重いドアをこじ開けた。

漫才コンビの相方、今いくよさん(右)とは高校の同級生だった

漫才コンビの相方、今いくよさん(右)とは高校の同級生だった

同期や後輩がスターの階段を着実に駆け上がっていくなか、鳴かず飛ばずの時期が長く続いた。転機となったのが80年。たまたま声がかかった全国放送のテレビ番組で、お腹を「ぱーん」とたたいて見せたところ、公開収録に集まっていた観客は爆笑。人生が変わる瞬間だった。

関西のお客さんは笑いを見る目が肥えている。特に厳しいのは大阪人。舞台が終わった後、「今日のネタはおもろかったな」「観客の笑いが薄かったんとちゃうか」などと声をかけられる。指先の動きまで気を抜かずにネタを披露しようという気持ちにさせてくれ、舞台に立つたび、自分のお笑いの先生はお客さんだと実感する。

■2015年5月、いくよさんが死去した。以後、一人で活動するピン芸人として再出発し、17年9月には京都府の文化観光大使を引き受けた。その目は地元、京都の盛り上げだけでなく、活況が続くインバウンド(訪日外国人)にも向けられている。

コンビ結成45年を迎え、12月には京都にゆかりある芸人を集めた記念イベントを京都市の劇場「よしもと祇園花月」で開く。誰でも悩みはあるが、笑うと一瞬であっても忘れることができるし、笑うこと自体が健康にもいい。関西にとって笑いは文化そのもの。その魅力を京都から発信していきたい。

元気にしたいのは日本人だけではない。日本語や関西弁が理解できなくても、身ぶり手ぶりを交えて工夫を凝らせば、動きで笑いを体験してもらえる。顔の前で両手を翻しながら交互に前後させ、「どやさ」と繰り返すギャグなどは覚えてもらえるのではないか。今はインターネットが普及している。世界中の誰もが面白いことを発信し、受信もできる。笑いは関西の輸出品にもなるはず。

人や町を明るく楽しくしていくのが漫才師の最大の役割。いくよさんと交わした100歳までお笑いを続けようとの約束も忘れていない。この気持ちは大切に持ち続けたい。

(聞き手は大阪社会部 加藤彰介)

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