2017年11月21日(火)

姿・由来、伝説につつまれ 笠置寺磨崖仏(もっと関西)
時の回廊

コラム(地域)
関西
2017/11/15 17:00
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 寺の本尊なのに姿がみえない「弥勒磨崖(みろくまがい)仏」。くっきりと鮮やかなものの来歴が謎に包まれた「虚空蔵(こくうぞう)磨崖仏」。京都、奈良、滋賀、三重の県境近く、笠置山(288メートル、京都府笠置町)には、共に日本最大級ながら不思議な対比をみせる2つの磨崖仏がある。

弥勒磨崖仏は光背とみられる部分が残る

弥勒磨崖仏は光背とみられる部分が残る

 奈良にほど近く、東大寺や興福寺との関係が深い笠置寺の創建は白鳳時代とされる。古くから巨石信仰があったようだが弥勒仏が刻まれて以降、一大修験行場として栄えた。平安期には貴族らがこぞって笠置詣でを行い、清少納言の「枕草子」にも紹介されている。

 ■戦火で本尊焼失

 「笠置寺縁起」によると弥勒仏は「約1300年前、天智天皇の皇子の求めに応じて天人(てんにん、天上界の人)が刻んだ」とされる。実際は渡来系の技術者が彫ったと考えられている。現在その姿がみえないのは鎌倉末期、元弘の乱に巻き込まれた際に焼失したとされるからだ。

 1331年、幕府打倒を企て失敗した後醍醐天皇は笠置山に入る。当時50に上る寺院があり僧兵がいたとされる笠置山は、幕府軍の攻撃で堂塔がことごとく焼亡。小林慶昭住職(55)は「拝殿などの建物が炎上し、磨崖仏にも火の手がかかったのでは」と推測する。

 日本石材産業協会(東京)によると、仏が刻まれていた花こう岩は構成する鉱物の熱膨張率がそれぞれ異なり、炎にあぶられると表面が剥がれたり割れたりするという。戦火で磨崖仏が失われた可能性は十分あるようだ。

 弥勒仏はどのような姿だったのか。知る手掛かりは幾つかある。鎌倉時代の「笠置曼荼羅(まんだら)図」(国重要文化財)や、奈良県宇陀市にある大野寺の磨崖仏など笠置のものを模したとされる石仏だ。

 民間企業「文化財復元センター」(京都府精華町)が2010年、岩に残るわずかな痕跡からデジタル技術で復元した画像は立ち姿の線刻像で、岩の高さは約15メートル、像本体は10~12メートル程度といったところ。大阪・道頓堀にある江崎グリコの電光看板のランナーは手の先までが約13メートルというから、その規模が想像できる。

 ■星の光が穿った?

虚空蔵磨崖仏は高さ約7メートルの線刻像だ

虚空蔵磨崖仏は高さ約7メートルの線刻像だ

 一方、高さ約10メートルの岩に彫られた虚空蔵仏はくっきりと残っている。太さ約2センチの線で描かれているのは座った姿。空海が修行をした際「星から出た光が穿(うが)った」と伝わる。美術史家の故・川勝政太郎氏が「密教図像的な大傑作」と評したように緻密で優雅。川勝氏は平安後期の作と推定したが定説はなく、「虚空蔵」という尊名すら諸説あるという。

 焼き打ち後、寺は再興を遂げるが、戦国期に山は再び天然の要塞として使われた。江戸後期になると後醍醐天皇にまつわる戦跡として注目され、弥勒信仰の場としての性格は後退。京都府立山城郷土資料館の田中淳一郎副主査は「戦前は皇国史観と結びつき、修学旅行で栄えた。その反動か、近年は研究されることは少ない」と話す。

 56億7千万年後に現れ、衆生を救済するという弥勒菩薩(ぼさつ)。その偉大さを笠置の自然に重ね、すがった古代の人々の思いは「戦跡として名高くなったことで結果的に守られたのではないか」と小林住職は語る。巨岩の周辺には現在も、いつの時代か寄進されたとみられる経筒などが埋まっているという。

 文 社会部 岡田直子

 写真 山本博文

 《交通》JR関西本線笠置駅から徒歩1時間弱。拝観料は大人300円。
 《見どころ》1周約800メートル、所要時間30~40分の「修行場めぐり」は磨崖仏のほか、木津川や山並みが一望できる平等石など様々な巨岩群を回る。秋は紅葉、秋から冬には雲海が臨める。2016年には奈良・春日大社の式年造替に伴い摂社の1つの古い社が移築された。

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