関西弁の壁 友と克服 歌舞伎 中村鴈治郎さん(もっと関西)
私のかんさい
■歌舞伎俳優の四代目中村鴈治郎さん(58)は二代目中村扇雀(現・坂田藤十郎)さんと元宝塚歌劇団の俳優、扇千景さんの長男として生まれた。上方歌舞伎の家に生まれながら、学生時代までは関西との関わりは深くはなかった。

私が生まれた頃は、関西の歌舞伎が低迷していた時期で、仕事を求めて両親は東京に拠点を移していた。母は京都の祖父の家に帰省して私を産んだので、生まれたのは京都だけれど、8カ月後には東京に戻り、ずっと東京で育った。子どもの頃の関西の思い出は、冬休みになると祖父の家に里帰りしたくらい。関西で歌舞伎がかからなかったときも京都の顔見世だけは続いていたので、南座に出演する父について来ていた。
歌舞伎俳優の家では珍しく、父は学校に通っている間は舞台には出さないという方針だった。私は初舞台こそ小学校のときに踏んでいるが、中高校の間は舞台に出ていない。大学を卒業して、就職するように歌舞伎の世界に入った。
■歌舞伎俳優として活動を本格化したが順風満帆とはいかない。幼い頃から舞台に慣れ親しんだ同世代に比べブランクがあるため、なかなか役がつかない。歴代の鴈治郎が得意とした家の芸に向きあうと、関西弁という壁にもぶつかった。
東京育ちなので関西弁がしゃべれない。うちの芝居は関西弁ができないと格好がつかないものが多い。関西弁を身につけるために大阪に留学しようかと思ったくらい。助けてくれたのは大阪でできた友達だ。
私が歌舞伎の世界に入った1980年ごろ、澤村藤十郎さんたちを中心に関西での歌舞伎公演が始まった。大阪の方がいい役がつくので、私は何度も出演した。公演で大阪に滞在する間にジャズドラマーの中山正治さんや、アメリカ村をつくった日限萬里子さんらと知り合い、友達の輪が広がった。関西の人間として私のことを受け入れてくれ、肩肘張らずにいられるようになったのは彼らのおかげ。課題の関西弁も少ししゃべれるようになった。
2001年には大阪に部屋を借りた。すると、関西での仕事が入ってくるようになった。東京から呼ぶとなると、交通費や宿泊費が必要だが、大阪に住まいがあれば安上がりということなのだろう。朝日放送「おはよう朝日土曜日です」のコメンテーターも約2年務めた。そうこうするうちに、少しずつ大阪で認めてもらえるようになり、06年には大阪ロータリークラブに入会した。

15年1~2月、大阪松竹座(大阪市中央区)で四代目中村鴈治郎を襲名。これを機に住民票を大阪に移した。近年は大阪松竹座での新春公演、7月の関西・歌舞伎を愛する会、12月の京都顔見世興行が定例化し、関西での公演は着実に増えてきた。とはいえ、1年中公演している歌舞伎座を擁する東京との差は大きい。
関西でお客さんが入らないというのは、劇場が少ないからではないか。歌舞伎に限らず、東京で評判になった公演を関西に持ってこようと思っても、受け入れる小屋がない。公演がないと、ますます演劇を見る人が少なくなってしまう。大阪城公園に劇場を造る計画があるそうだが、期限を設けず長く続けてほしい。かつては道頓堀に芝居小屋が多数あった。そこまでは望まないが、同じ月に大阪の2カ所で歌舞伎公演ができるようになってほしい。
東京で演劇の観客の多くは、東京以外から来る。大阪も他の地域の人が訪れたくなる街にならないと。大阪は通りが弱いというのが私の持論。東京なら、歌舞伎座のある東銀座から新橋、虎ノ門と人の流れがあるが、大阪は分断されている印象。御堂筋はキタとミナミをつなぐ大きな通りだが、人がずっと歩いていけるような所ではない。大阪も街と街が通りでつながればもっと魅力が増す。
(聞き手は大阪・文化担当 小国由美子)
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