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画室64畳、絵描き村の礎 櫻谷文庫(もっと関西)

時の回廊

京都市北区の衣笠地域は大正から昭和半ばにかけて、日本画家が大勢移り住んだことから「絵描き村」と呼ばれた。その早い時期の1人が、戦前に一世を風靡した木島(このしま)櫻谷(おうこく)(1877~1938年)。公益財団法人「櫻谷文庫」(門田理代表理事)は随時、櫻谷の旧邸を公開しており、画業がなされた現場と暮らしぶりを目にできる。

高窓備え開放的

大画室は開放的なつくりで、自然の光が取り込まれている

櫻谷は日本画の一派「四条派」の流れをくみ、西洋絵画の陰影や立体表現を取り入れて一時代を築いた。明治末年まで市中心部で暮らしていたが、大正元年(1912年)に30代半ばで衣笠に土地を求め、翌13年に移り住んだ。

敷地面積は約6300平方メートル。13年に木造2階建ての居宅と2階建て洋館、木造平屋の画室を建設。現在はこの3棟が残るだけだが、茶室や書院なども設けられていた。

画室は長方形で64畳敷き。柱は広い画室の周囲にしかなく、武道場を思わせる開放的なつくりだ。採光にも気を配り、画室の南面と西面は障子を開け放てるようにし、上部に高窓を備えている。往時は画室の縁の下に入り込むように池が築かれていたといい、景観とともに、水面の反射光を取り込む工夫だったとみられている。

京都工芸繊維大学の清水重敦教授は「明治時代、多くの画家は居宅の2階などを仕事場にしていた。これだけ大きな独立した画室を構えたのは、櫻谷が京都で最初ではないか」と話す。

洋館2階の応接間は当時の姿を保ち、随所に櫻谷の好みがにじむ

櫻谷が転居した当時、衣笠の宅地開発は始まったばかり。一帯は竹林などが広がり、植木業者が点在していたという。転居先にこの地を選んだ理由の一つは、新興住宅地だけに広い土地を確保しやすかったからだろう。また「自然の豊かな眺望の開けた地で、画業に取り組みたい」との思いがあったに違いない。

画業をみると、転居前年に「寒月」(六曲一双の屏風)で文展の2等賞を受賞するなど、大仕事を次々にこなしていた。弟子の人数も増えており、大画室を必要とする状況にあったのは確かだ。

学校に土地貸与

ここ衣笠で櫻谷は、17年から18年にかけ、財閥の住友家の依頼で大阪・茶臼山の同家本邸に飾る連作の大型屏風を制作している。13年以降、文展やその後の帝展に出品した作品は、豪商の小津与右衛門(よえもん)が次々に購入した。泉屋(せんおく)博古館(京都市)の実方葉子学芸課長は「櫻谷文庫が保管している手紙を見ると、絵の注文は全国から寄せられ、引きも切らない状態だった」と指摘する。

衣笠には櫻谷に続くように菊池芳文、土田麦僊(ばくせん)、村上華岳(かがく)、小野竹喬(ちっきょう)、山口華楊(かよう)ら日本画家が移り住んだ。「絵描き村」と呼ばれるようになったのもうなずける。

旧邸は櫻谷が没した2年後の40年、設立された財団法人「櫻谷文庫」に寄付された。戦後、画室は幼稚園や京都府立図書館上京分館として利用され、現在、土地などは近隣の学校法人ヴィアトール学園洛星中学・高等学校に無償貸与されている。

櫻谷文庫の門田代表理事は「事業目的の一つである教育活動への協力」と話す。旧邸の庭にはテニスコートや菜園などが造られ、クラブ活動の生徒の声が響いているが、画家の旧邸がこうした形で活用されているのは珍しい。

文 編集委員 小橋弘之

写真 大岡敦

 《交通》京福電鉄や京都市バスの北野白梅町駅から徒歩10分弱。12月3日までの毎週金、土、日曜と祝日に特別公開している。見学料は大人600円など。
 《ガイド》洋館2階の応接間は和洋に中国的文人趣味を取り入れたしつらえ。座って壁に掛けた軸物を楽しめる設計で、壁下部にはめ込まれた竹や、収蔵扉のワラビの意匠など櫻谷の好みを見てとれる。

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