2017年11月22日(水)

修験道の本山 雅な一角 聖護院門跡(もっと関西)
時の回廊

コラム(地域)
関西
2017/11/1 17:00
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 切り立った崖や険しい山道をものともせず、修行に打ち込む修験道。くじけそうな心を戒めるためとはいえ、蔵王権現、不動明王などの像は憤怒の形相で怖そうだ。修験道を取り巻くイメージはどこかいかつい。

書院は京都御所から移築された

書院は京都御所から移築された

■趣向凝らした意匠

 聖護院門跡(京都市左京区)は本山修験宗の総本山。いわば修験道の本拠だ。さぞや近寄りがたいいかめしさが満ち満ちて――。と思いきや、境内の一角、17世紀前半に建てられた書院は、予想に反して奥ゆかしく雅(みやび)な風貌だ。

 柱や長押(なげし)がいずれも4角に丸みを残した面皮材。か細く華奢(きゃしゃ)で、造作が柔らかい。線の細さが、部屋の印象を傷付きやすくはかなげなものにしている。

 細部にも意匠が凝らされている。室内装飾として違い棚を支える「持送り」は、植物をモチーフにした精妙な透かし彫りが施してある。「灯火がゆらめくのに伴い、影模様が踊る。そんな風情を楽しむ趣向が凝らされている」(宮城泰岳執事長)。あちこちに打たれた釘(くぎ)の頭にかぶせる金属装飾の「釘隠し」はササリンドウか、折れ文を図案化したものだ。

 このほか、当時極めて高価だったガラスが、障子にはめ込んだ窓に使われている。板状ガラスを造る技術は当時日本にはなかったとされ「おそらく舶来もの」(宮城氏)。ガラス越しの景色がゆがんで見えるのはむしろ年代物の証しかもしれない。2枚あり、片方は割れたため明治以降に入れ替えた。

江戸初期のものとされるガラスをはめ込んだ窓

江戸初期のものとされるガラスをはめ込んだ窓

 書院はかつて、御所にあったと伝えられる「女院御殿」だ。あるじは後に逢(ほう)春(しゅん)門院と呼ばれる櫛笥隆子(くしげのたかこ)。後水尾(みずのお)天皇に愛された女性で、6男4女を設けた。子の1人が聖護院の29代門跡に就任した関係もあり、聖護院が現在地に移転するときにこの建物を拝領したとされる。

 後水尾天皇は江戸幕府による皇室締め付けが厳しくなる時期の天皇だ。幕府の圧力に抗う一方で、古今集にまつわる秘伝の解釈や学説をまとめた古今伝授を授かったり、修学院離宮(京都市左京区)を造営したり、審美眼や学識を磨いた人物としても知られる。

 その後水尾天皇が愛した後宮の居住空間であれば、天皇の審美眼が随所に光っていておかしくはない。

■3年間仮御所に

 寺の伽藍(がらん)配置は本堂がいわば主格のはずだが、ここ聖護院の場合、門跡の執務空間である宸殿(しんでん)の方が構えも大きく、よい場所を占める。「おそらく、いつ何時門跡が皇位継承する事態が起きても対応できるように配慮してのことでしょう」(宮城氏)

 実際、1779年に光格天皇はここ聖護院から宮中に戻り、皇位を継承した。そればかりでなく、88年に京都で起きた天明の大火で御所も延焼した時、再建されるまでの3年間、光格天皇はここに避難し、仮御所として滞在した。

 聖護院のルーツは平安時代後期にさかのぼる白河坊。後白河天皇の子、静恵(じょうえ)法親王が入ったことをきっかけに、宮門跡寺院となる。中世は岩倉(京都市左京区)や烏丸上立売(同上京区)など場所を転々としたが、1676年に原点である現在地に戻った。

 今は聖護院というと、「大根」や「銘菓八つ橋」を連想してしまうと言いたいところ。宮城氏は苦笑しつつも「もっとこの寺の歴史も知ってもらいたい」と話した。

文 編集委員 岡松卓也

写真 大岡敦

 《交通・ガイド》京阪神宮丸太町駅から徒歩約10分。
 原則として拝観には距離を置いてきたが、2016年から秋に期間限定で公開している。17年は9月16日から12月10日まで(11月28日は休み)。
 拝観料は800円。山伏の修行の様子などをパネルなどで展示しており、「修験道とは何か」に触れることができる。

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