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「応仁の乱」後 織物職人集う 西陣誕生550年(もっと関西)
とことんサーチ

2017/10/26 17:00
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京都の「西陣」という名称が誕生して今年で550年。11月11日は室町時代の応仁の乱が終わった日とされ「西陣の日」に認定されている。高級織物の産地として有名だが、知っているようで知らないのが西陣。西陣織とは一体何なのか、なぜ「東陣」は残っていないのか、素朴な疑問を探った。

まずは京都市歴史資料館(京都市上京区)の井上満郎館長を訪ねた。「西陣」の由来はよく知られるように応仁の乱の西軍の本陣があったことだ。堺などに戦火を逃れた職人が京都市上京区の堀川通の西側の地域で織物生産を再開した。

「東陣」の名が残っていないのは「幕府の特権で西陣織だけが残った」(井上氏)のが理由という。東陣があったのは室町幕府の「花の御所」近辺(今の京都御苑の北西側)。京都に戻った職人の一部は東陣近辺にある白雲村に練貫方という組織をつくり織物を生産し、西陣の大舎人座と対立した。だが1500年代前半に室町幕府が西陣の技術と特権を認めた。

京都の荒廃を招いた応仁の乱の陣を名にするというのは違和感を感じるが、井上館長は「応仁の乱は自分たちで身を守るという町衆の自治意識が生まれた契機となった。京文化が全国に波及するきっかけにもなり、もたらしたのは負の面ばかりではない」と指摘する。

両陣の場所を示すものがいくつか残っている。堀川通から西へ入った路地には西軍の山名宗全の邸宅跡地の石碑、京都市考古資料館(京都市上京区)前には西陣の碑が立っている。東陣も今出川通沿いに「足利将軍室町第址(あと)」という石碑があった。細川勝元邸近辺は住宅地で、南側の小川児童公園に記念の説明パネルが立つばかりだ。両軍は堀川通を挟んで歩いて5分ほどと驚くほど近かった。

次に西陣織会館(京都市上京区)を訪ねた。西陣織工業組合の辻本泰弘専務理事に西陣織の特徴を聞くと「1つ目は先染めの紋織物だということ。2つ目は各工程が分業でやっていること」と説明してくれた。

先染めとは糸を先に染めてから織物にすること。生地を後から染めるのに比べて、表面だけでなく中にも複雑な模様ができ、重厚感のある織物になる。実際に西陣織の帯を見てみると複雑な模様が織りなす豪華なものが多い。

得意とするのが帯だ。出荷の4割強を占め、博多、桐生と並び三大帯産地となっている。50万円から100万円するものもある。帯だけでなく西陣では海外ブランドのネクタイのOEM(相手先ブランドによる生産)もしている。

西陣織を織る様子(京都市上京区の渡文)

西陣織を織る様子(京都市上京区の渡文)

西陣には糸の原料、ねん糸、染めといった各工程の会社が散在し「地域内にすべての職人が集まっているのは珍しい」(辻本氏)という。

では実際にどのように織っているのか。工業組合の理事長を務める渡文の渡辺隆夫社長に工場を見せてもらった。

渡文の工場では職人は6人。木製の織機を操り能装束を織っていた。要領は「あやとりと同じ」と渡辺社長は言う。平行に並んだ縦糸を足で踏んで開いて上げ、シャトルと呼ばれる紡錘形の器具を横に素早く差し入れて交差させ重ねていく作業だ。

模様をつくるため使う糸は織機の上部からコンピューターや「紋紙」と呼ばれる穴の開いた板で複雑に制御する。「昔は織機の上に人が乗って糸を出していた」という。紋紙を使うジャカードと呼ばれる技術を明治に真っ先に取り入れたのも西陣だった。

高級帯など複雑なデザインはあくまで手織り。「つるつるとした糸は機械でできても、紬(つむぎ)など素材感の強い糸の織物では織るのが難しい」と渡辺社長は話す。

西陣織のメーカーは約380社。従業員数も1975年の2割弱となる約2200人まで減少した。年間出荷額もピークの1割強の320億円程度。後継者不足と市場縮小が続く中、水平分業の維持も難しくなっている。「新しい商流やシステムをつくっていかないと」と渡辺社長は危機感を募らせる。伝統の西陣ブランドも岐路に立たされている。

(京都支社 渡辺直樹)

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