新薬が安くなる? 費用対効果が問う「命の値段」

不治の病にかかった人が新薬によって元気に1年延命できるとします。この新薬に社会はいくらまで支払えばよいでしょうか?
社会が支払いを許容する「命の値段」を、新薬の価格に反映する議論が進んでいます。厚生労働省は2018年度にも既存薬に比べた新薬の効果を測り、効果に対して値段が高すぎれば値下げする「費用対効果」という評価の仕組みを薬価に適用する計画です。
背景には医療費の膨張があります。15年度に42兆円だった国民医療費は25年度に61兆円まで増えると推計されています。特に新薬は開発費の高騰によって高額化し、医療財政を圧迫しています。
日本は高額な薬にも原則として保険が適用され、保険料と税金で多くの財源を賄っています。医療経済学が専門の一橋大の井伊雅子教授は「すべての医療サービスを漫然と保険でカバーしている日本は例外的だ」と話しています。医療に費用対効果の考え方を導入する動きは欧州やアジアで広がっており、英国では高額で話題になったがん治療薬の「オプジーボ」が日本のほぼ半額となっています。
新薬の値段が下がるのは、いいことばかりとは限りません。企業が薬の開発に消極的となる懸念があるのです。膵臓(すいぞう)がん患者でつくるパンキャンジャパン(東京都)の真島喜幸理事長は「英国では新薬を使えない患者も生まれている」と、患者が新薬を使う権利の確保を求めています。
さて命の値段や費用対効果はどうやって測るのでしょう。冒頭のような質問をインターネットですると、日本では500万円程度だったという過去の研究があります。厚労省は大規模な調査などにより基準額を決め、基準を上回る新薬を値下げする方針です。
薬の費用対効果のとらえ方は単純ではありません。病気やけがを治すだけでなく、患者の苦痛を和らげたり、精神の状態をよくしたりするなど様々な効果があるからです。抗がん剤の吐き気を抑える治療法の費用対効果を研究した昭和大学病院の清水久範氏は「効果の測定には測定者の主観が入ってしまう場合もある。正確な評価には膨大なデータの蓄積が必要だ」と指摘しています。
■井伊雅子・一橋大教授「費用対効果の視点、医師報酬にも必要」
医療に費用対効果を持ち込むという考え方はなぜ必要で、どのように理解したらいいのでしょうか。医療経済学を専門とする井伊雅子・一橋大教授に聞きました。
――医薬品の値決めに費用対効果の考え方を導入する議論が進んでいます。なぜ今なのでしょうか。

「日本の公的医療保険制度の最大の問題点は、承認された医薬品を漫然と一律にカバーしている点だ。『日本が世界に誇る国民皆保険』というスローガンがあるが、皆保険を導入している国は欧州を中心に多くある。その中で日本のように基本的にすべての医療サービスを保険でカバーしてきた国は例外的だ。このままでは高齢化や医療の高度化により費用はどんどん膨らみ、皆保険制度の持続可能性が危ぶまれる。限られた予算の下ではすべての医療サービスをカバーできないという現実の中で、優先順位をつける方法が費用対効果の評価である」
――導入する際の注意点は何でしょうか。
「費用対効果に基づく医療は、エビデンス(証拠)を重視する。これは過去の研究に基づいて確率的・定量的に示された診療行為の効果や害のことだが、絶対ではない。たとえばEBM(根拠に基づく医療)といっても、患者の意向と周囲の状況を含めて総合的に意思決定することが重要だ。エビデンスが絶対であるかのような独り歩きには注意しなければならない」
「もう1つは、慎重を期すあまりに何もしない事態を避けることだ。費用対効果に基づいた制度を90年代後半からスタートした英国でも、最初から完璧な制度ができあがるとは考えていなかった。当時の英国の保健大臣も『うまくいくかは分からないが、まずやってみよう』と提唱していた。その後、10年超の試行錯誤を経て、徐々に医療現場の効率性を高めてきた歴史がある。日本でも最初から万全の制度をつくることは不可能だ。しかし万全でないから始めない、と言っていられるほど医療財政に余裕がない現実がある」
――医師の治療にも費用対効果という考え方が応用できるそうですね。
「日本では医師の報酬が出来高払い制となっていて、治療や投薬を重ねるほどもうかる仕組みになっている。対して英国は従来の人頭払いと出来高払いに加え、2004年から医師の報酬の一部を成果払いとする制度を導入した。これは地域に責任を持つ医師に対して、その地域の住民の健康状態をどれだけ高めたのかを客観的な指標で評価した上で報酬を払う仕組みだ。日本でも、過剰診療になりがちな報酬体系を見直し、費用対効果に優れた標準的な診療へ医師を導く制度が必要だろう」
(高橋元気)
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