2019年9月23日(月)

明治の名残 街見守る櫓 元有済小学校の太鼓望楼(もっと関西)
時の回廊

2017/10/18 17:00
保存
共有
印刷
その他

昔も今も多くの人が行き交う京都市の三条大橋。その南東にある建物の屋上に、時の流れに取り残されたような木造の簡素な櫓(やぐら)がぽつんと立つ。元京都市立有済(ゆうさい)小学校の太鼓望楼(ぼうろう)だ。

京都市の中心部に立つ太鼓望楼

京都市の中心部に立つ太鼓望楼

有済小は2004年、統廃合で134年の歴史を閉じた。建物は元校舎で現在、市教育委員会が事務棟として使っている。畑中義伸施設長の案内で、はしごをよじ登って望楼の内部をのぞかせてもらった。

基部はおよそ3メートル四方、高さは約5メートル。思ったより狭い。屋根裏まで吹き抜けており外観と同様、内部もシンプルだ。大きな窓から光が差し込み、照明はないが室内は明るい。往時は火の見櫓の役目を果たし、太鼓を据えて市民に時を知らせもした。「半鐘も太鼓も校内に保存されている」と畑中さんが教えてくれた。

望楼は明治9年(1876年)建築。当初は2階建ての講堂の屋根にそびえていたが1952年、講堂の取り壊しに伴って現在の場所に移築された。鉄筋コンクリート3階建ての元校舎自体、37年建築の年代物だ。

■市中自治の拠点

なぜ小学校の屋上にこんな櫓が設けられたのか。それには京都の小学校の生い立ちが深く関わっている。

国による学制発布に先立つこと3年前の明治2年、京都では市民の発案により日本最初の学区制小学校が創設された。市中の自治組織「町組」を「番組」に再編し、それぞれに「番組小学校」計64校を設置。消防署や警察署、集会所、徴税や戸籍を扱う役所など様々な役割を兼ねていた。

当時の京都は維新前の戦禍で荒廃し、東京遷都で衰退への危機感が高まっていた。京都市学校歴史博物館の和崎光太郎学芸員(学校史)は「小学校は地域のコミュニティーセンターとして復興の中核機能を担った。講堂では住民らが頻繁に集会を開き、様々な事案を話し合った」と説明する。

建設費は富裕層による拠出と府からの融資で賄った一方、運営費は住民すべてが負担した。和崎さんは「小学校は自分たちのもの、との意識を醸成するのに効果的だった」と語る。

■地域のシンボル

通学率が高まるとすぐに当初の校舎は手狭になり、数年後にはより広い場所へと移転・新築ラッシュが起きた。各校に櫓が設けられたのはこのころだ。中には5層もの高さの櫓を持つ小学校もあったという。

はしごが設けられたシンプルな構造

はしごが設けられたシンプルな構造

「地域のシンボルとして建てたのだろう。有済小のものも当時はかなりの高層建築だった」。京都市文化財保護課の石川祐一主任(建築史)はこう指摘する。「この時期、京都の富裕層の邸宅でも望楼を建てるのがはやった。塔を頂く擬洋風建築が全国的に流行した影響もあるかもしれない」

消防署が別に整備されると火の見櫓としてはお役御免となり、校舎建て替え時に建てられなくなった。特に1934年の室戸台風で多くの犠牲者が出たのを機に、校舎は次々と木造から鉄筋コンクリート造りに代わり、櫓は姿を消した。

有済小の望楼だけがなぜ新築校舎に移されたのか。記録がなく事情は不明だが、和崎さんは「残したいとの地元の強い意向があったに違いない」と推察する。

明治初期から京都の町と小学校の移り変わりを目にしてきた望楼。廃校の翌年、国の登録有形文化財となって引き続き保存されることになり、今も地域を見守り続けている。

文 大阪・文化担当 竹内義治

写真 大岡敦

 《交通》京阪三条駅からすぐ。施設内は公開していない。
 《ガイド》京都市学校歴史博物館(京都市下京区)で、番組小学校や望楼など京都の学校の歩みに関する歴史資料や教育資料、卒業生が寄贈した美術工芸品を展示している。阪急河原町駅から徒歩約10分。
保存
共有
印刷
その他

関連キーワード

電子版トップ



[PR]

日本経済新聞社の関連サイト

日経IDの関連サイト

日本経済新聞 関連情報

新しい日経電子版のお知らせ

より使いやすく、よりビジュアルに!日経電子版はデザインやページ構成を全面的に見直します。まず新たなトップページをご覧いただけます。

※もとの電子版にもすぐ戻れます。