2017年12月13日(水)

大政奉還 克明に記録 新発田藩、二条城伝達から150年

2017/10/13 9:14
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 江戸時代最後の将軍、徳川慶喜が京都・二条城で大政奉還の意向を各藩の重臣に伝えた際、越後新発田藩の家臣が経緯を克明に記録していたことが仏教大の青山忠正教授(明治維新政治史)の調査で判明した。各藩への伝達は150年前の慶応3(1867)年10月13日。当日の参加者による自筆の記録が確認されたのは初めてという。

 文書を残したのは新発田藩の京都留守居役だった寺田喜三郎。慶喜が朝廷へ提出する上表文の草案を書き写すなどしていた。青山教授は昨年、仏教大図書館所蔵の「寺田家文書」から大政奉還時の記述を発見。今年3月に論文を発表した。

 文書によると、当日に二条城へ集められたのは約40藩の重臣50人ほど。一同が二の丸大広間に詰めていると幕府の老中、板倉勝静が出座し「書付3通を渡すので考えを腹蔵なく申し上げよ。将軍が直々にお聞き遊ばされる」などと説明した。

 3通の詳細は不明だが、1通は大政奉還の上表文の草案とみられ、寺田家文書には「従来之旧習を改め、政権を朝廷に帰し」などの意向が記されている。「徳川慶喜公伝」で伝わる上表文は「政権ヲ朝廷ニ奉帰」と体裁の一部が異なるが、内容は一致する。

 大広間では薩摩藩の小松帯刀、土佐藩の後藤象二郎ら6人が残り、慶喜と面会することになったが、寺田家文書にも「居残之分」として6人の名前があった。

 青山教授は「3通の書付が渡されたことが新たに分かった。多くの各藩重臣がそろった大広間に慶喜が現れ大政奉還を表明したと誤解している人もいるかもしれないが、慶喜が大勢の前には出座していないことも明確になった」と話す。

 慶喜は伝達の翌14日に上表文を朝廷に提出し、15日に許可された。〔共同〕

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