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野球グラブの一大産地 奈良・三宅町に職人技(もっと関西)
とことんサーチ

2017/10/5 17:00
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かつて野球グラブの生産量で国内シェア9割を誇ったのが奈良県だ。中でも一大産地として知られるのが同県三宅町。最盛期の1970年ごろには、多くの職人たちで町は活況を呈した。この地でグラブ作りが地場産業として根づいた経緯を調べてみた。

奈良盆地の中央に位置する三宅町の面積は4.06平方キロメートル。全国で2番目に小さい町だ。近鉄田原本線で但馬駅に向かう途中、「スポーツ用品工業の町」の看板が目に入る。町内には、この地にグラブ製造の技術を伝えた坂下徳治郎の名を刻んだ石碑も立っている。

三宅町史によると、1902年に同町で生まれた坂下は皮革関連の技術を身につけるため、大阪に住む義兄の見習いになった。美津濃運動具店から野球グラブ用の革の裁断を頼まれ、初めてその存在を知る。グラブ作りを仕事にできないかと解体して仲間と製法の研究を重ね、地元に帰って21年に生産を始めた。

当初は数軒で推移していたグラブ製造業者だが、戦後に野球人口が増えて需要が拡大すると、雇われていた職人が次々と独立。米国メーカーから注文を受けて56年に始めた同国向けの輸出が急成長を後押しした。

三宅産グラブの輸出量は当初の165万個から、最盛期の70年には587万個にまで増加。地元には北海道から沖縄まで全国から労働者が集まり、三宅町商工会などによると、同町だけで全国シェア6割を誇った。近隣の河合町、桜井市を含む奈良県全体では実に9割を占めたという。

52年に創業した三宅町のグラブメーカー「吉川清商店」の2代目、吉川雅彦さん(59)によると、今はワンマン運転の無人駅である但馬駅が当時は通勤する職人であふれかえり、工場は受注に追われて早朝から深夜までフル稼働。多くの職人を雇うため、長屋の社宅を用意した業者もいた。

「ピーク時には町内だけで120軒ぐらいの業者がいた」と、三宅町商工会会長の置本佳司さん(71)。だが、70年代に入ると苦境に陥る。1ドル360円の固定相場制が終わったことで、米国の輸入先は価格競争力で勝る台湾や韓国に取って代わられた。

国内大手メーカーも主要な生産拠点を海外へと移し、受注は減少。後継ぎがなく高齢のため廃業した業者も多い。現在も「シェアは最も高いのでは」と置本さんは語るが、商工会によると、三宅町の業者は十数軒にまで減ったという。

吉川清商店には4年前に長男の誉将さん(31)、3年前に次男の正敏さん(29)が3代目を継ごうと会社員を辞めて戻ってきた。大手からの注文を大事にする一方、2年前には一家で独自ブランドのグラブ作りにも乗り出した。「高品質のグラブを作ってきた歴史と誇りを引き継ぎたい。将来的には海外にも輸出して、三宅産の良さを発信できれば」と誉将さんは力を込める。

使い手の細かい要望に応えたオーダーグラブが浸透してきたこともあり「この2、3年で10人以上の若者が職人になりたいと訪ねてきた」と置本さん。鹿児島県喜界島出身の朝日郁弥さん(22)は通っていた福岡県の専門学校の教員に頼み込み、紹介を受けた家族経営の工場に昨春、弟子入りした。「グラブ職人になるのが高校球児の頃からの夢だった。腕を磨き、いずれは独立開業したい」

地元業者が独自ブランドで出すグラブは2015年度から、三宅町のふるさと納税の返礼品にもなっている。昨年度は寄付者の4割強にあたる309人がグラブを求めた。特産品として注目を集めつつある追い風を生かそうと、町はグラブ製造開始100周年となる21年に向け、記念イベントの開催を検討していく。

「日本の野球界を確かな技術で支えてきた『グラブの町』を全国にPRし、地域の活性化につなげたい」と町政策推進課長の林田忠男さん(48)。伝統を次代に託す挑戦が続いている。

(大阪・運動担当 常広文太)

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