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創建1300年「恋人の聖地」 お初天神(もっと関西)
時の回廊

2017/10/4 17:00
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大阪・キタのビル街の中に埋もれるように立つ露天神社(つゆのてんじんしゃ、通称お初天神)は、言わずと知れた「曽根崎心中」の舞台だ。境内には「恋人の聖地」と書かれたのぼりがはためき、2人にあやかろうと恋愛成就を願う人が多く訪れる。だが、本来は曽根崎地域の総鎮守。約1300年前に創建された由緒ある神社であることはあまり知られていない。

■道真の和歌由来

ビルの1階部分を貫く露天神社への参道

ビルの1階部分を貫く露天神社への参道

露天神社の歴史は「難波(なにわ)八十島祭」に遡る。平安から鎌倉時代にかけて、天皇の即位儀礼の一環として行われた祭祀(さいし)で、大阪湾に浮かぶ島々を巡拝したと伝えられる。社伝には「島中に住吉住地曽根神社(すみよしすむちそねのかむやしろ)在り、故にこの地を曽根の洲(す)と称す」とあり、平安時代の大阪を描いた古地図にも描かれている。

創建年代は定かではないが、吉沢克規宮司は「祭の形が整った8~9世紀には神社もあったと推察される」と話す。当初から恒常的な祠(ほこら)を建てたのかは定かではないが、霊験あらたかな場所として尊重されていたようだ。

社名の由来は諸説あるが、菅原道真が詠んだ和歌にちなむという説が有力だ。太宰府へ流される途中、福島に船を泊めて太融寺に参詣する道すがら、曽根崎に立ち寄り「露と散る涙に袖は朽ちにけり都のことを思い出ずれば」と詠んだ。この歌から「露天神社」となったという。

■心中事件で脚光

歴史が下ると、周辺に田畑を開いて人々が住みつき、神社は鎮守として信仰を集めるように。1703年には堂島新地天満屋の遊女お初と内本町平野屋の手代徳兵衛による心中事件が起きる。近松門左衛門はその1カ月後には曽根崎心中を書き上げ、芝居は大評判を呼んだ。恋を貫くために天神の森で命を絶った2人は「恋の手本」として描かれ、参詣回向の老若男女が大勢押しかけたという。

露天神社に残されている平安時代の大阪を描いた地図

露天神社に残されている平安時代の大阪を描いた地図

その頃から「お初天神」と呼ばれるようになるが、「遊女の名前で呼ぶのはけしからんという声もあった」(吉沢宮司)。「恋人の聖地」などとおおっぴらにうたうようになったのは比較的最近のことのようだ。

終戦直後から境内で営業を始めた闇市の店舗が「お初天神食堂街」と名乗り、北側に延びる商店街も「曽根崎お初天神通り商店街」となった。吉沢宮司は「日本には亡くなった人が後の人を守ってくれるという信仰があり、今となっては違和感はない」と話す。

とはいえ、神社本来の役割が地域の守り神であることは変わらない。周辺の商店街の店主などが氏子として名を連ね、毎年7月の第3金・土曜日に行う例大祭(夏祭)では、阪神百貨店前からハービス大阪、大阪駅前、お初天神通りなどの氏子地域を役太鼓や舞獅子が8時間かけて巡行する。

神社南側に建つ梅新第一生命ビルは1階部分が四角くくりぬかれたようになり、参道につながっている。参道を挟んで東西に分かれてたビルを一体にして建て替える際、「参道は残してほしい」という地元の要請に応じた。露天神社が今でも地域で大事にされていることを示すエピソードだ。

周囲に駅やビルが次々とできて環境は大きく変わったが、「神社そのものは変わらない」と吉沢宮司。物語を超えて、神社の歴史は連綿と続く。

文 大阪・文化担当 小国由美子

写真 大岡敦

 《交通》JR大阪駅から徒歩約10分、大阪市営地下鉄谷町線の東梅田駅から徒歩約5分。
 《お初・徳兵衛のブロンズ像》2人の三百回忌の後、地元商店街などからの寄付で境内の西側に建てられた。1953年から上演された歌舞伎の「曽根崎心中」で、お初と徳兵衛を当たり役とした二代目中村扇雀(現・坂田藤十郎)と二代目中村鴈治郎がモデルとされる。

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