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1882年設立の大阪紡績(現東洋紡)をはじめとする紡績会社は当初、原料に国産綿花の利用を考えていたが、やがて輸入綿花に切り替えていく。これで「五綿八社」などの商社に大きな商機が生まれた。
日本綿花(現双日)は92年、関西の紡績会社を中心に設立されインド、エジプト、中国からの綿花輸入を始める。三井物産の綿花部門が独立したのが東洋棉花(現豊田通商)だ。商社が様々な国から買い付けた綿花を混ぜて使うことで、紡績会社は「相場変動リスクを小さくできた」(宮本又郎・大阪大学名誉教授)。
五綿などの商社は紡績会社がつくる綿糸、綿布など製品の輸出も担った。
1910年代に工業生産に占める繊維の割合は5割に達した。神戸大大学院の平野恭平准教授によると、33年に日本は綿布輸出で英国を抜いて世界一になり、貿易摩擦も生じた。
英国の植民地だったインドは同年、製品価格の75%という高率関税をかけて日本の綿製品を締め出そうとした。日本の紡績会社と繊維商社は業界ぐるみで団結し、インド綿花の買い付け停止で対抗する構えを見せる。インドは翌年、日本の輸出量制限を条件に関税を50%に下げた。
船場八社の一社、八木商店(現ヤギ)も鐘淵紡績(現クラシエホールディングス)の製品を積極的に扱い、ともに繁栄した。
日本在来の綿糸は繊維がよくよれておらず、膨れていた。このためしっかりよっていた鐘紡の糸は「やせている」と市場の評価が低かった。八木の創業者、八木與三郎は「鐘紡の糸はよく紡いである」との糸商人の評価を利用するよう、鐘紡の経営者である武藤山治に進言し、信頼関係を深める。メーカーと商社が「売り手よし、買い手よし」の関係だった。