東京でシンガポールの味 ミシュランの星付く屋台文化

昨年、ミシュランガイドのご当地版が、東南アジアで初めて発売されたシンガポール。その中に500円以下の料理を売る世界初のミシュラン1つ星店が登場し、話題をさらった。
「ヒル・ストリート・タイ・ホァ・ポーク・ヌードル」と「ホンコン・ソヤソース・チキンライス・アンド・ヌードル」という店で、なんといずれも屋台。豚ひき肉が入った幅広麺や、しょうゆ味のローストチキンを載せた細麺やご飯が看板料理だ。

「シンガポールの人は、共働きが普通ですから、基本的に朝昼晩と外食なんです」とシンガポール政府観光局の吉田明子さんは説明する。そんなお国柄だから、安くておいしいものが食べられる屋台文化が発達したというわけだ。シンガポールでは屋台は「ホーカー」と呼ばれ、これらを集めた屋台村、ホーカーセンターは国民のお腹を満たす「台所」だ。
「3食外食のシンガポール人は、まずいものは食べません。あまりおいしくない店はすぐつぶれてしまいます。逆に、おいしい店なら並んでも食べようとするんですよ」(吉田さん)。ミシュラン星付き屋台が生まれるのも当然の土壌があるのだ。

屋台で最も人気が高い料理の一つは「ラクサ」。魚介類のだしが効いたココナツ風味のスパイシーなスープが特徴の麺料理だ。シンガポールは1965年にマレーシアより分離独立した若い国だが、かつてマレー半島に移住した中国人男性とマレー人の女性の結婚で生まれた食文化はニョニャ料理(プラナカン料理)と呼ばれ、このラクサもその一つ。ホーカーセンターにはどこにでもあるという「国民食」だという。
「うちのスタッフの間で『シンガポールに行ったら絶対食べたい』と人気があるのは、このラクサと肉骨茶(バクテー)ですね」(吉田さん)。肉骨茶というのは、豪快な骨付の豚肉が入ったスープ。ご飯とセットで食べる。この4月には東京・赤坂にも肉骨茶の専門店が登場し話題を呼んだ。

骨付き肉というとボリューム感たっぷりで、昼・夕食としてゆっくり楽しむ料理のように思えるが、「これは、主に朝食で食べるものなんですよ」と吉田さん。そして、「意外にあっさりしているんです」と涼しい顔をする。
先の専門店で食べてみると、確かに八角などを使っていると思われるスープは薬膳のようで、肉も脂っぽさがなくすっきり。じんわりと体調が整いそうな味わいだった。店内にいたシンガポールに在住していたとおぼしきビジネスマンも、「これこれ、シンガポールではよく朝、ホーカーに食べに行ったもんなんだよね」とうれしそうに連れに話している。

ところがこの料理、驚くことが一つ。ニンニクがいくつも房ごと入っていたのだ。
本当にそんなに朝からニンニクを食べるのかと思っていたら、「うちの店でも房ごとのニンニクを入れていますが、シンガポールではもっといっぱい入れますよ」との声。教えてくれたのは、シンガポールの屋台料理をコンセプトとした店を都内で2店舗経営する中国系シンガポール人のパトリシア・チアさんだ。
「ニンニクいっぱいなのは、元々この料理は、マレー半島に来た中国人肉体労働者、苦力(クーリー)が、スタミナを付けるために食べたものだから。祖父は中国の海南島出身で、苦力だったときもあったのですが、港で重い荷物を運ぶ仕事をする前に肉骨茶を食べたものだと言っていました。その頃は残りもので作った料理ですから、ほとんど骨に肉は付いていなかったそうです」(チアさん)。

チアさんの祖父はその後、シンガポールに海南鶏飯(ハイナンジーファン、ハイナンチキンライスとも呼ばれる)などを出す軽食店を開いた。当時はまだシンガポールでもあまり提供店はなかったらしいが、海南鶏飯は、ゆで鶏をこれをゆでたスープで炊いたご飯と一緒に食べるシンガポールの代表料理。
ダークソイソース(濃厚なしょうゆの一種)やトウガラシ、ショウガを使ったソースという3種類のたれを添えて出す。そんな祖父を持つチアさんは、日本に本格的なシンガポール料理を伝えたいと、2005年に最初の店をオープンした。

チアさんの東京・恵比寿の店「新東記(シントンキー)」で、彼女が「これぞ」と思うシンガポールの代表的屋台料理を教えてもらった。その筆頭が麺料理「チャークェイティアオ」だ。
「シンガポール人で食べたことのない人はいない料理。子供からお年寄りまで、みんなが好きな庶民の味なんです」と言う。言わばシンガポール風焼きそばなのだが、現地の人が「これ!」と思う味にするのはとても難しいのだという。
「調理する際の中華鍋の温度がとても重要なんです。温度が高すぎると料理が焦げてしまうので、その一歩手前で調理する。甘いソースを使った麺料理であるチャークェイティアオは焦げやすいのですが、シンガポール人はみなこの調理温度にすごくこだわりがある。火をうまくコントロールして絶妙な温度の中華鍋で調理する料理人は『ウォッメイ』(中華鍋の味)がある、とほめます」(チアさん)。
「新東記」で幅広の米麺を使ったチャークェイティアオを食べてみた。ツルツルした麺には濃厚な甘さがからまり、具材である脂のうまみたっぷりの中国腸詰がよく合う。「一昨年亡くなったシンガポール建国の父であるリー・クアンユー元首相は、この料理が好物だったと言われているんですよ」とチアさんは教えてくれた。
今では、具材としてエイや中国腸詰、野菜などが入る料理だが、元々、チャークェイティアオは、一番元手がかからず屋台を出せる料理だったのだという。「私が小さいときは、材料は麺ともやしと卵だけ。卵は自分の家から持参して屋台で作ってもらうこともできて、それだとさらに安く食べられたんです」とチアさんは懐かしむ。

実はチアさんお薦めのほかの料理は、昔の人の知恵から生まれた節約料理ばかりだった。例えば、パラフィン紙に包んだ鶏肉を油で揚げた「ペーパーチキン」は肉が紙で包んであるため油を吸わず、揚げ油が少なくてすむ料理。
節約のために考えた調理法だったのだろうが、タレにじっくり漬け込んだ鶏はパラフィン紙に包んで揚げることで直に油に触れず、肉がとても軟らかく仕上がる。肉汁が逃げないので、食べると肉汁がじゅんわり口の中に広がった。

やはりシンガポールの名物料理である、魚の頭入りのカレー「フィッシュヘッドカレー」は、頭などかつて捨てられていた魚の部位を用いた料理。人口の1割近くを占めるインド人の食文化の影響を受けた料理だが、「新東記」で食べたのは、パンダンという東南アジア独特の食材を使っていた。
パンダンは、風味づけや緑色の食品着色料として使われる植物で、芳ばしい香りがする。かつてはもっと身が少ない部位を使っていたのだろうが、魚の頭といった骨付き部位を使うことで、だしが効いたおいしいカレーが生まれ、自然に広まっていったのだろう。カレーはさらりとしていて、魚好きの日本人の味覚をくすぐる味わい。私が最初にシンガポールを訪れた際、一番印象的だったのもこの料理だったことを思い出した。

チアさんが、「オタオタ」(シンガポールの公用語の一つであるマレー語で脳という意味)という料理を薦めてくれたのも興味深かった。レシピにバリエーションがあるようだが、「新東記」で食べたのは、エビと青魚をすり身にしてココナツミルクやスパイスと合わせ、バナナの葉で包んで焼いたもの。
ラクサの屋台ではよく一緒に売られている食べ物で、「私はこれがあったら、まず買います。『ラクサ』に入れるとおいしいんですよ」とチアさん。パンにはさんだり、ご飯と一緒に食べたり、お酒のツマミとしても最高と言いながらチアさんは「一番ポピュラーなのはおやつとして買って、これを食べながら歩くというスタイルかな」と言う。
エビしんじょうのような食感かと思いながら食べてみると、ホロホロと魚フレークのように崩れ、中から刻んだレモングラスがのぞいた。生のレモングラスを使っていて、スパイシーなココナツ風味の魚料理に爽やかな味と食感が加わる。
バナナの葉で包まれたオタオタは、見るからに食べ歩きに向いていそうだ。ホーカーセンターの料理はシンガポール人の食生活だけではなく、歴史やライフスタイルをも映し込んでいる。ミシュラン星付き店誕生には、そんな屋台文化の豊かさも一役買っているのだろう。
(フリーライター メレンダ千春)
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