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イチローの打撃の神髄、ゼロコンマ何秒の世界(後編)

スポーツライター 丹羽政善

その日も米テキサスは暑く、レンジャーズは外での打撃練習を中止した。一方で、クラブハウスなど室内は極端なまでに冷房を効かせる。時々、腕をさすりながらマーリンズのクラブハウスにいると、1本だけバットを手にしたイチローが室内ケージから戻ってきた。結果的には、レンジャーズでの最後の登板となったダルビッシュ有との対決を翌日に控えた7月25日のことである。

「聞きたいことがあるんですが」と声をかけると、イチローはバッティンググローブを外しながらいう。

「どうぞ、僕が答えられることでしたら」

その水が冷たいのか、温かいのか、触った本人以外には答えようがない。聞こうとしていることもおそらく、イチローにしか答えられない。

「そりゃ、大きいよ」

あるデータを伝えると、即答だった。

「そりゃ、大きいよ」

5月から不定期で追いかけてきたイチローのスイングスピードの話。「イチローの打撃の神髄、ゼロコンマ何秒の世界(前編)」では、イチローのスイングスピードのデータをたどりながら、プロ野球中日時代の1994年から3年連続でセ・リーグの首位打者を獲得したアストロズのアロンゾ・パウエル打撃コーチによるこんな仮説を紹介した。

「スイングスピードが速ければ速いほど、自分の打ちたいポイントに対して、始動を遅らせることができる。その分、長くボールを見ることができ、打者はそれだけ、多くの情報を得られる」

では実際、スイングスピードの違いによってどれだけ長くボールを見られるのか。

イチローの打撃の神髄、ゼロコンマ何秒の世界(中編)」では、国立スポーツ科学センターの森下義隆さんに協力を依頼し、例えばスイングスピードが時速に換算して10キロ違うとどうなるかを算出してもらった。森下さんはスポーツバイオメカニクスが専門で、同センターで野球打者のスイング技術の評価をテーマに研究している。

条件などは中編を参照してほしいが、例えばインパクトの瞬間の時速が100キロと90キロのスイングスピードを比較した場合、同じポイントでボールを打つとすれば、「100キロの方が、約20センチ分遅くスイングを開始することが可能になります」とのことだった。その20センチを時間に置き換えると0.015秒。150キロの球で考えれば、0.015秒の間にボールが約60センチ進む計算だという。

ならばそれぞれの数値が、イチローにとってはどんな意味を持つのか。それが今回のテーマだが、打撃練習から戻ったばかりのイチローの顔はほんのりと上気し、まだ、スイッチがオンのまま。それがゆっくりと静まっていく中で森下さんのデータを伝えると、冒頭でも紹介したように「そりゃ、大きいよ」とイチローは話し、続けた。

「0.015秒と聞いただけで、そりゃ、デカイだろって(笑)。全然、違う。でも、わざと遅くしているケースだってある。単純な比較はできないから難しいところだけれど、本当に振った結果としてその差が出ているなら、それはデカイよね」

言い換えればそれは、0.015秒に詰まった情報量の大きさということか。

ただそれはあくまでも感覚的な話であり、「『俺、60センチ長く見える』って、体感的にそれを感じることは難しい」とイチロー。仮に物理的に長くボールを見たければ、「単純に60センチ下がればいいだけ」と言って、続けた。

「(普段、自分が立っている位置から)バッターボックスの後ろまで下がっても60センチないかもしれないけれど、下がったらそれだけ見られるわけだから。ラインを踏んでればいいわけだから」

「審判のことを考えて」

そういえば2012年の開幕当初、イチローはバッターボックスの一番後ろまで下がった。

「やった、やった」

左足など、バッターボックスの外に出ているようにみえたが、イチローも口にしたように、ラインを少しでも踏んでいればいい。当時、審判のスーパーバイザーにも確認すると、問題ないとの回答だった。しかし、イチローは決してボールを長く見ようと考えたわけではない。

「あれは、審判のことを考えて」

審判?

「あまりにも、通常ならボール(球)がストライクになるケースが多いから、僕が立ってる場所が悪いんじゃないかと。その変化を見るために下がってみた」

例えば、ボール気味の低めのボール。以前はボールだったのに、ストライクとコールされることが増えたのではないか。実際、11年ごろから、ストライクゾーンが低めに広がったというデータがあり、そこを掘り下げると長くなるので改めるが、一例を紹介すると、グラフのように09年と14年ではストライクとコールされるエリアが低めに広がっていることがわかる。

そんな傾向に対してイチローはそのとき、自分の立ち位置に問題があるのではと考えたわけだが、結果はといえば……。

「(変化は)ない。ないから、戻した」

実際のところ、立ち位置に関係なく、当時はまだストライクゾーンが低めに広がる一方だった。

話をスイングスピードに戻せば、イチローは0.015秒の大きさにうなった。スイングスピードは決して一定ではないが、投手がボールをリリースしてからホームベースに達するまでの時間が0.4秒前後とされる中で、0.015秒は確実にアドバンテージになるようだった。

もっとも、それがすべての選手にとって共通の事象かといえばそうとも限らず、生かすも殺すもその選手次第。スイングスピードがイチローよりも速い選手はいくらでもいるものの、01年以降にイチローよりもヒットを打っている選手は一人もいない。「そこは野球の難しいところ、複雑なところ」とイチロー。「(スイングスピードを速くするだけなら)頭を使わないやつにもできる」

よって今、スイングスピードや打球の速さが話題になることも多いわけだが、そんな傾向にイチローは首をかしげた。

「スイングスピードや、いま(球場によっては)打球のスピードが出るところもあるけれど、あんなこと、なんの役にも立たないことかがわかるわけだよね。やってる選手にとっては」

それぞれのスピードが速ければいいのか。それだけでヒットが打てるのか。ファンが楽しむのにはいい。否定はしない。でもそれは、一面にすぎないんじゃないか。もっと打撃は奥が深いはず。より強く、より速くという流れにイチローはこうあらがう。

「2アウト三塁で、僕なんかはよく使っているテクニックだけれど、速い球をショートの後ろに詰まらせて落とすという技術は確実に存在するわけで、でも今のメジャーの中での評価は、チームによってはそこで1点が入ることよりもその球を真芯で捉えて、センターライナーのほうが評価が高い。ばかげている。ありえないよ、そんなこと。野球が頭を使わない競技になりつつあるのは、野球界としては憂うべくポイントだわね。野球ってばかじゃできないスポーツだから、でも、ばかみたいにみえるときがあるもんね。ほんとに」

現場の人間には意味持たず

センターライナーは、イチローがショートの後ろに詰まらせて落とす打球よりも打球の初速が速いからこそ評価もされるわけだ。だが、そんな価値判断に対して、改めてイチローは異を唱えた。

「練習で同じ球を打って、それを測っているんだったら別にいいけれど、ピッチャーはこっちが待っている球を投げてくれないからね。結局こういうことは、現場にいる人間にとってはなんの意味もない」

速い球が評価される投手の球に関しても、同じようなことがいえるのでは、とイチローは指摘する。

「ピッチャーが100マイル(約160キロ)を投げても、嫌なボールではないケースでもある。でも、90マイルでもこいつ嫌な球だなあって(感じることもある)」

それはボールの動きかと問うと、「いや、動きがなくても」とイチロー。「ストレートなのに、90(マイル)なのに嫌なものはある」

確かに、これまで決して肉眼では知ることのできなかった数値がわかるようになった。とはいえ、打席に立って初めて見えることもあれば、技術やその選手の狙いまで数値化できるわけではない。それでも一部のチームが、机上の数字に対して必要以上に意味を持たせようとする背景には、こんな一因があるのではないかとイチローには映る。

「野球をやったことがないやつを現場に入れているから、ややこしくなっている」

イチローがショートの前にボテボテのゴロを放つ。野球を知っていればそれを必然と判断できる。データにはたけていても、野球そのものを知らなければ、偶然としか映らない。

ただ、「まぁ、しょうがない。そういう時代だよね」とイチロー。

「病気ができたら、それを治す薬がその後しか出てこない。そういう時期なんだね」

その比喩は、様々な示唆に富んでいた。

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