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上田利治氏、もう一度監督になってほしかった

スポーツライター 浜田昭八

1979年夏、メディア、球界関係者が参集した「大リーグ観戦ツアー」で、阪急の監督を辞任して間もない上田利治と同行した。新人解説者としての取材準備は周到。同時に現場復帰への意欲も十分とみられた。

78年9月、2度目の前後期制覇を決め、ナインに胴上げされる上田氏=共同

買い物などには無関心だった。だが、阪急監督を引き継いだ元コーチ・梶本隆夫が欲しがっていた甲高、幅広の米国製の靴を求めたときだけは、街中を探し回った。

梶本は254勝をマークした阪急の看板スターだった。上田は梶本より2歳若く、3年プレーしただけの広島の控え捕手だった。スターOBが監督になるのが自然だった風潮の中で、"外様"上田が西本幸雄の後任監督に選ばれたのは異例だった。

しかも、上田は梶本を投手コーチとして使った。打撃コーチになった中田昌宏も梶本と同い年の元本塁打王。この輝く"生え抜き"とともに仕事をするのには、言うに言えない気苦労があっただろう。淡々とした「大人の付き合い」でしのいだとみられた。だが、後に梶本が「ということにしておこう」と漏らしたあたりに、微妙な息遣いが感じられた。

就任2年目の75年から3年連続日本一、78年にもリーグ優勝を果たした。上田の評価は上がる一方で、「西本の遺産」のおかげと、やっかむ声も少なくなかった。遺産を増やした成果のわりには、評価は不当に低かった。

97年4月、日本ハム監督時代の上田氏=共同

解説者2年で阪急監督に呼び戻された。予定通りだったか、梶本を投手コーチで使った。5年の阪急第1期監督時代に比べて、阪急、オリックス、日本ハムで指揮を執ったここからの15シーズンは、苦労の連続だった。

新旧交代の時期にさしかかった阪急では、ベテラン勢の抵抗に遭った。広島、阪急の駆け出しコーチ時代には「オレはできなかったが、センスも体力もあるキミならできる」を指導の基本姿勢にしてきた。監督としてキャリアを積むと、権力者と見なされるようになる。

如才ない言動は、地位を守る処世術と受け止められることもある。日本ハムでの監督5年間は、初めて監督になった74年からの栄光の5年がかすむほどの苦難続きだった。最近、大阪桐蔭高や阪神が試みて話題になった走者三塁でのヒット・エンド・ランは上田が発案した作戦だった。優れた戦略家でもあった上田に、21世紀に入ってからもう一度、監督になってほしかった。=敬称略

 上田利治(うえだ・としはる) 1937年徳島県出身。59年、関西大から広島入団。捕手で3年間プレーし、121試合出場、打率2割1分8厘、2ホーマー、17打点。広島のコーチを経て、71年から阪急コーチ。74年から阪急、オリックス、日本ハムの監督を通算20年務めた。パ・リーグ優勝5回、日本一3回。

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