世代交代 待ったなし バレー・古賀紗理那(下)
競技経験のある母、博枝の影響もあって、古賀紗理那は幼い頃からバレーボールに親しんできた。母に連れられママさんバレーに通い、小学2年になると地元のクラブに入り、試合にも出るようになった。古賀はいう。「たまにスパイクも打たせてもらって。それがとても楽しかった」
クラブでの練習は週1、2回、遊びの延長という感じだった。最初は楽しかったが、すぐに物足りなくなる。近くに厳しい練習で知られた強豪のクラブがあった。試合をしても力の差がありすぎてまるで歯が立たない。「どうせやるなら強いチームでやりたい。もっとバレーボールがうまくなりたい」。両親にそう訴えかけた古賀は程なくしてチームを移ることになった。

新しいクラブは火曜日を除く週6日、毎日3時間みっちり練習に費やした。当時の古賀は背が低く、ポジションはもっぱら守備が専門のレシーバーだった。練習ではスパイクを毎日のように拾い続ける守備練習に明け暮れた。「小中高を通じて一番練習がきつかったかもしれない」。基礎を徹底的に磨いたことで、選手として土台ができた。
「バレーボールがうまくなりたい」という思いは古賀の才能を花開かせた。小学校の全国大会に出場し、中学では全国大会の優秀選手にも選ばれた。熊本信愛女学院高に進学すると、2012年にはアジアユース選手権に出場。日本の大会4連覇に貢献するとともにベストスコアラーと大会MVPにも輝いた。13年には初めて全日本代表メンバーに選ばれ、イタリア遠征で早くも代表デビューも果たしている。
順調なステップアップ。ただ、社会人になるまでは自分が代表となり世界の大舞台で戦うことをあまり意識していなかったという。もちろん、全日本に対する憧れはあったのだが、それは別世界の話。高校の仲間たちと一緒に目の前の大会を勝ち抜きたかった。
■お家芸復活へ「世界と勝負」
古賀にとって世界という舞台が現実味を帯びたのは15年のワールドカップ(W杯)でチームの主力として戦ってから。長く全日本を支えてきた木村沙織らと濃密な時間を過ごすことで、五輪というものも強く意識するようになった。そして16年のリオデジャネイロ五輪代表落選という挫折を経験し、3年後の東京五輪への思いは強くなっている。
リオ五輪を境に全日本女子は転機を迎えている。真鍋政義監督が勇退し、女性監督として初めて五輪を指揮することになる中田久美新監督が就任。4大会連続で五輪に出場しチームを引っ張ってきた主将の木村が引退した。世代交代は待ったなし。今後、主役となるのは古賀たちの世代だ。
初めて五輪でバレーボールが採用された1964年の東京五輪で金メダルを獲得して以来、長く日本のお家芸といわれ続けた女子バレーボール。女子でも高さとパワー全盛の中で日本の不利は否めないが、「戦い方次第で世界と勝負できる」と前を向く。(敬称略)
〔日本経済新聞夕刊5月24日掲載〕