2019年1月18日(金)

現地の若者に夢託す ソフトテニス・荻原雅斗(下)
カンボジア代表ヘッドコーチ

2017/5/6 6:30
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両親の影響で荻原雅斗は小学4年でソフトテニスを始めた。それからは競技が生活の中心だった。練習に試合にと、競技に明け暮れた。ところが、6年の時、チーム内で荻原のペアだけ全国大会に進めなかった。「人生で一番泣いた」

中学では全国中学校大会でベスト8という結果を残したが、満足とはほど遠かった。「どうせやるなら日本一になりたい」。故郷の岐阜を離れ、ソフトテニスの強豪校、東北高(宮城)への進学を決意した。

小学4年でソフトテニスを始め、高校で日本一に。異国の地で「貢献したい」と思うようになった

小学4年でソフトテニスを始め、高校で日本一に。異国の地で「貢献したい」と思うようになった

同校監督の中津川澄男(49)は「まあまあ上手だなくらいの印象。でも努力家で、誰よりも勝ちたいという気持ちが見えた」と振り返る。身長178センチで胸板が厚く、前衛としては相手に脅威を感じさせる。堅実でミスが少ない選手だった。高校2年の3月、全日本高校選抜大会でようやく「日本一」を経験した。

大学は地元に戻り、中京大に進学した。ソフトテニスに打ち込む日々は続くが、限界も感じていた。団体では日本一になれても個人(ペア)のタイトルに届かない。日本代表など遠い夢で、実業団に進んでプレーする意思もない。大学4年で主将として挑んだ全日本大学王座決定戦優勝を花道にするつもりだった。

一度は飲食業へ転じるが翻意

だが、就職活動でも自己アピールはソフトテニスの話ばかり。「ソフトテニスをとったら自分には何もないのか」と自問を繰り返した。そんなとき、高校時代の友人から電話がかかってきた。友人が勤める飲食店プロデュース・運営の企業のカンボジア支社立ち上げに参加しないかという誘いだった。「海外に行けば、ゼロからチャレンジできる」。他企業の内定をもらっていたが、話に飛びついた。

現地で日本食堂とバーの店舗マネジャーを務め、経営のノウハウを積んだ1年後に独立。カンボジア連盟からコーチの打診を受けたのは、異国の地でソフトテニスのない人生が軌道に乗り出した矢先だった。

仕事と両立する自信はなかった。何よりもソフトテニスと離れた人生を送るために海を渡ったはず。だが、コートを訪れて選手たちの練習を見るうちに違う考えが湧いてきた。「日本人にない体のバネやサーブの速さを見て、育成すればそこそこ勝てるなと感じた」

荻原はフェイスブックなどのSNSでカンボジアでの活動を発信。これがきっかけとなり月に数回、現地のニュース番組や大手地元紙でソフトテニスが紹介された。競技者も100人前後までに増えた。アジア連盟事務総長で国際普及に長年携わる笠井達夫(72)は「現地に渡ってじかに接するのが最良の普及手段。若いのにエネルギーはすごい」と荻原をたたえる。

今は「ソフトテニスが人生の全て」と言い切る。翻意させてくれたカンボジアにも、ソフトテニス界にも「どんな形であれ貢献したい」。若い選手たちには、国を背負うという選手時代に果たせなかった自分の夢も乗せている。(敬称略)

〔日本経済新聞夕刊5月2日掲載〕

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