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樋口広太郎(13)父

一晩がかりでグローブ縫う

父、徳次郎 手製グローブに感激 戦争始まり閉店、進学決断

実直な商人だった父、徳次郎は滋賀県・安土の貧しい小作の家に生まれました。先祖は安土城の近くに砦(とりで)を構えていた深尾という武将で、織田信長に滅ぼされたそうです。由緒正しい家系かもしれませんが、父が生まれたころは既に貧しい農家で子沢山だったため、小学校を卒業する寸前に洋服販売の店に丁稚奉公に出され、だいぶ苦労したようです。

それから自分の才能を生かそうと思って友禅の下絵描きで身を立てようとしていたところ、縁があって樋口家の婿養子になったのです。父は後年、「もう少し金持ちだと思って来たら、えらい貧乏で、自分が働いて貯めたわずかなカネまで使われてしまった」と笑いながらこぼしていました。

父は小学校も満足に出られなかったのですが、じつに多才な人でした。友禅の下絵描きをやっていたので絵心があり、60歳を過ぎてから本格的に日本画家に師事して、展覧会に絵を出品してよく入選していました。どこで勉強したのか、英語も結構知っていました。きっと父は耳が良かったのでしょう。音感も優れていたので、いろいろな歌をすぐに覚えました。

父は穏やかな性格で、本当に怒られたのは2回ぐらいしかありません。少年野球をしていた時、最初に買ってもらったグローブが壊れてしまい、新しいのをせがむと「うちでは買えない」と叱られました。悔し涙を流したら、翌朝、父が一晩がかりで作った布製のグローブが置いてありました。これには本当に感動しましたね。

母きみ(左)と父徳次郎(右)と(中央が筆者)

もう一回は、私が住友銀行の常務の時でした。京都の西山、双ケ岡に建った新しいマンションを、両親を住まわせるために申し込みました。東映の大川博元社長の別荘が隣にある所です。「お父さんもお母さんも働き通しだ。いい場所なので買うから、ここでたまにはゆっくりしたらいい」と話したら、父は黙り込んでいます。どうしたのかと聞いたら、「お前はこの小さな家から親の葬式を出すのが恥ずかしいのか」と言うんです。

そういうつもりではないといくら説明しても、聞いてくれません。「嫌だということはやめてくれ。そんなことを考える人間はダメだ。自分の子供として恥ずかしい」と、ますますしかられました。自分のことは自分で始末するから、余計なことはするな――それが父の気骨でした。

母のきみは涙もろい平凡な母親で、私を大変かわいがってくれた優しい人でした。後年、家を離れた私は、月に一度は必ず両親のもとを訪ねることにして、41年間欠かすことはありませんでした。私が行くと、母はいつも「お帰り、ようお帰り」と、とても喜んでくれました。母は、死ぬまで面倒を見てくれた3人の妹には言いたいことを言っていましたが、私は男の子だったからでしょうか、特別扱いでしたね。

母とも、亡くなる少し前に添い寝をしました。寝付けずにじっとしていると、母は不自由な体で私の布団をかけ直してくれるのです。私は涙を流しながら寝たふりをしていました。

祖父はおとなしく実直なたちで、職人気質の働き者でした。祖母のあつは蒔絵師で、教養があり、字がうまく、本もよく読んでいました。当時の女性の教養として、浄瑠璃ができました。私は子供のころから浄瑠璃が耳に入っているので、歌舞伎を見ても少しはわかります。

私は祖母にとてもかわいがられ、いろいろと影響を受けました。母には姉がいましたが早くに亡くなり、一人っ子で祖母から溺愛されて育てられたようです。そこにやっと生まれた男の子が私で、後はまた女ばかりだったので、祖母の私への期待はひとしおだったのでしょう。

祖母から教わったことは身についているので忘れられません。私は「水は方円の器に従い、人は善悪の友による」と毎日、繰り返し唱えさせられました。最初はまだ物心がついたばかりだったので、何の教えか全く理解できませんでしたが、小学校も上級になってやっとわかりました。水は入れ物によって形を変え、人間は付き合う人の善し悪しで決まるという意昧で、友達を大切にしなさいという教えです。これは私の生き方の基本になっています。

また、祖母は手習いをよく教えてくれました。墨をする時には、「天神さん、弘法さん、はよう墨濃くなってくださいませ。お猿がひも引いた。どこまで引いた。天まで引いた。手習いは坂に車を押すごとし。油断をすれば後ろに戻るぞ」と三度歌わせました。すると素晴らしい墨の色になる。この歌は、継続は力なりで、毎日こつこつ努力することの大切さと、油断すると元に戻ってしまうということを自然に教えてくれました。

私は前述の通り、小学校2年生の時から家業の布団店を手伝い、配達から集金までやりました。一人息子として、家を継いで商人になるのが当たり前と思っていました。ですから小学校を卒業すると、商売の勉強をするために京都市立第二商業学校に進みました。

布団屋になるつもりだった私ですが、太平洋戦争が始まったおかげで、人生は突然、大きく変わりました。父が島津製作所の工場に旋盤工として徴用されてしまい、家業を閉じざるを得なくなったからです。私はどうなることかと、一時は迷いましたが、苦学してでも上の学校に進もうと決意しました。

いろいろな進学先が考えられましたが、商業学校では数学を履修していないので、高等商業に入るのが順当でした。汽車賃もかかるので、できる限り近い所がいいと思い、最終的には父の郷里である安土に近い、官立彦根高等商業学校を選びました。

 この連載は、2001年1月に日本経済新聞に連載した「私の履歴書」および新聞連載に加筆して出版された本「樋口廣太郎 わが経営と人生 ―私の履歴書―」を再掲したものです。2013年、日経Bizアカデミーで公開した記事を再構成しました。

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