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いつも山頂を 亡き師匠が語った稀勢の里との秘話

大相撲初場所で悲願の初優勝を飾り、日本出身では19年ぶりとなる横綱昇進を決めた稀勢の里(30)。角界最高位への礎を築いたのは、先代師匠の故・鳴戸親方(元横綱隆の里)だ。2011年11月に59歳で急逝したが、その1カ月前に親方は日本経済新聞のインタビューで、入門当時から厳しく指導してきたまな弟子への思いを語っていた。亡き師匠が明かした稀勢の里との秘話とは――。

中学校校長が角界入り後押し

04年3月に十両昇進を果たし、師匠の鳴戸親方(左)に祝福される稀勢の里(当時は萩原)=共同

2人の出会いは、稀勢の里が中学生のときに鳴戸部屋の見学に訪れたことがきっかけだった。当時から恵まれた体格の少年を見て、親方はほれ込んだ。

「体を触ると、筋肉的にも肉質的にもいいものがあった。肉が伸びるというのかな、引っ張れば弛緩(しかん)する柔らかい筋肉。カリカリの肉と骨だけではないんですよね。ゴムのように伸びる肉質を持っていた。お父さんとお母さんに、まだまだ体も大きくなりますよ、卒業したら相撲部屋に入ってくださいと(スカウトした)」

「(角界入りを)お父さん、お母さんは決められなかった。中学校へ会いにいったとき、担任の先生もすごく反対した。校長室に2時間くらいいたかな。校長先生は黙って聞いていたけれど、最後に『君はやっぱり力士になった方がいい。親方もそう言っているんだから、そうした方がいいのではないか』と言った。そうして話がまとまっていった。本人は迷っていたんですよね」

02年春場所に「萩原」のしこ名で初土俵。角界有数の稽古量を誇る部屋で、親方は突き押し相撲を徹底してたたき込んだ。それは弟子の体の特徴を見抜き、けがのない頑強な肉体をつくり上げるためでもあった。

「(入門して)好きに相撲をとってごらんと言ったら、ただのわんぱく相撲だった。すぐに差してまわしを取って、体だけ寄せる相撲をとった。小中学校のレベルでは体が大きいから勝つだろうけれど、これからはそうはいかないと思った。蹲踞(そんきょ)をさせると、(足が)くにゃっといかず、爪先で立っちゃう。これではまわしを取って、ごちゃごちゃしているうちに、膝を折るなどけがをする。腰も膝も足首も硬い。そういう人は元来、四つ相撲は無理。それは入門してすぐ気づいた」

「これはダメだと思って、『そういう相撲をとったら出世は止まる。あしたから稽古場でまわしを取ってはいけない』と懇々と話した。そこから来る日も来る日も、押しと突き、突きと押し。あとは相手に捕まったときの対策を教えた。それだけでしたよね。(現在小結の)高安なんか、そんな稽古はしたことない。稀勢の里はなんで、俺にはさせてくれないのかと思ったかもしれない」

「3~5年後のこと」考え助言

スピード出世で番付を駆け上がり、16歳で幕下に昇進。04年には貴花田(後の横綱貴乃花)に次ぐ昭和以降2番目の年少記録となる17歳9カ月で新十両となった。

「三段目のときに出稽古にいったら、(周囲を)びっくりさせていた。幕内力士と稽古をして、5番くらい続けて負かした。そうしたら相手は(稀勢の里に)びんたを食らわせた。俺は熱くなって、『関取が下の者に負けたからって、手を出すんじゃねえ。力がついてきたなと褒めてやるもんだろ。なに、みっともないことしているんだ』と威圧したよ」

「稀勢の里が幕下のとき、巡業で(まだ幕内に上がる前の)白鵬とぶつかった。(何度も)これから当たるから、今が大事だよと言ったことがある。『立ち合いで当たるふりをして、バーンといなしてみろ』と。すると白鵬はもんどり打った。強くなる人は、負けた相撲を忘れない。もしかして立ち合いで変化するかも、いなすかもと、そういう恐怖感を植え付けなくてはいけないと言った。本人は何でそんなことを言うんだろうという感じだったけれど、僕は3~5年後のことを考えていた」

04年11月、新入幕を果たし、九州場所の番付表を手にする稀勢の里=共同

04年に18歳3カ月で新入幕、しこ名を「稀勢の里」と改めた。06年には19歳11カ月の若さで新小結に。大関昇進への期待が高まったが、三役で足踏みが続いた。

「どうみても(06年秋場所で右上手を引き初めて)朝青龍に勝ったあたりから、まわしを取るようになった。再三注意しているけれど、あれは取りにいったのではなく、たまたま右上手が引っかかっただけ。右上手を取っても、芸がないですよ。技がない。上手を取ったら、お客さんがワーッと沸いて、あとは完全に勝てるというものでもない。はっきり言ったんですよ。おまえは無駄な相撲を随分とっている、何番損したかと。きれいに勝ちたい、格好よく勝ちたい、そういうのが心の中に見える」

「プレッシャーに弱いのはダメ」

「やはり稀勢の里の相撲は、自分の体力を生かした、直線的な相撲ですよね。突き押し、押し突き、押し切れなくても、突ききれなくても、あとは前まわしを頂くような感じで攻める。もしくは左が入ったら、一気におっつけながら出る。とにかく相手に構えをさせない、速攻相撲というか、まわしを取ったとしても自分に有利なまわしの取り方をする。二本差されて、抱えて、こらえてこらえて、やぐら投げをして勝つような相撲ではない」

「若くして関取に上がった。まだ10代だったからね、かなり重圧があったと思うよ。それはいつも心の中で感じていました。『そういう道を歩いていかないといけないから、それらしく生きなくてはいけない』。そういう話をいつもしました。稀勢の里は往々にして重責に弱い。親方や世間からの期待感がないときは自由自在に、奔放に力を出せる。プレッシャーに弱いのはダメ。自己解析していくとか、努力をしないといけない」

重圧に打ち勝ち、親方が亡くなった直後の11年九州場所後に大関とりが成就。持ち前の馬力や突き押し、左おっつけに加え、親方が案じた四つ相撲も右上手を引けばぐっと安定感を増し、ついに綱に上り詰めた。まな弟子への苦言が多かった親方も、10年九州場所で横綱白鵬の連勝を63で止めた一番を話す姿は誇らしげだった。

「(前人未踏の69連勝の記録を持つ)双葉山の領域に行かせていいものかと、夜中の2~3時まで、2年半分くらい(白鵬の映像を)見て自分なりに考えた。朝、2人で話して、『白鵬はテレビに出ていて、背中、お尻、体を見ても、いつ稽古をしているんだと。おまえは勝てる。チャンスと思わなくてはいかん』と何点か注意を与えた。(立ち合いで)張ってくるか、かちあげてくるだろうけれど、我慢して脇を固め、あごを引いて突き押しでいってみろと。押していくと(白鵬は)必ず右から差していくから、そのときにおっつければいい。右手を抜いて、体を左に移していつも泳ぐから、そこを下から浮かせるようにすれば、さっと下がるはずだと。下がったらチャンスだから、頂くようにまわしを取ればいい。間違いなく、立ち合いがうまくいけばいけるからやってみろと。最後に何があってもガッツポーズはするなよ、報道の人が来ても『何かありましたか』と平静にいけと」

「(実際)強烈におっつけたら、一発で吹っ飛んでいったでしょう。相撲は研究、勉強しないとダメだと、本人は痛感したと思いますよ。大事な相撲で何番か勝って、少しずつ自分に信頼を持てるようになったのではないか。(白鵬の連勝を止めて)戦いで大きくなっていくことがある。一番一番の経験で勝てるぞと」

「やはり稽古、孤独な稽古しないと」

インタビューの最後、親方はまな弟子に繰り返し説いてきた「金言」を語った。それは今振り返ると、「横綱稀勢の里」の飛躍を願うメッセージのようでもあった。

「やはり稽古ですよ。汗を流して、土俵の中で勝った負けたではなくて、土俵の外でも勝ち負けがあるから。俵の外でのテッポウとかすり足とか、できることをやるべきですよ。孤独な稽古しないと。稀勢の里はこれを苦手とするところがあるから」

「宮本武蔵の言葉に『鍬(くわ)も剣なり』いう言葉がある。農民が困っていると聞いて、武蔵は開墾して助ける。弟子が『私は剣の修行にきたのに、なんで鍬ばかりなんですか』と尋ねたら、『鍬も剣なり』と。普段から、これは何の効果、意味があるんだと、掘り下げて考える力がわいてくればいい」

「いつも山頂をめざす気持ちは持っていないと。山頂をめざせば、もっともっと自信もつくし、もっともっと周りを展望できる。人間的にも大きくなると思う」

(取材・構成 金子英介)

 第59代横綱隆の里 青森県出身。元横綱初代若乃花の二子山親方にスカウトされ、1968年初土俵。幕下時代から糖尿病を患ったものの、食事療法や筋トレなどで克服、辛抱強く83年に30歳で横綱に昇進したことから、「おしん横綱」と呼ばれた。幕内優勝4回。86年に引退後、鳴戸部屋を開き、角界有数の厳しい稽古で稀勢の里や元関脇若の里ら多くの関取を育てた。2011年11月に59歳で亡くなった。

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