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野球U23W杯、初代王者へ導いた大塚コーチの一道

スポーツジャーナリスト 木崎英夫

「継続は力なり」という言葉がある。

出典には諸説があり作者は不明とされているが、住岡夜晃の「讃嘆の詩」に目を通すと、それはカッコでくくられ核となって歌われていることを知る。以下抜粋。

真に強いとは、一道を生きぬくことである

性格の弱さ悲しむなかれ 性格の強さ必ずしも誇るに足らず

「念願は人格を決定す 継続は力なり」

真の強さは正しい念願を貫くにある

住岡夜晃は大正から昭和初期にかけて広島で活動した宗教家で、「讃嘆の詩」の全詩節に触れると、冒頭の6文字には、生きる胆力を促す深みのあるメッセージが込められていることに気づかされる。

前置きが長くなったが、件(くだん)の詩から浮かぶ情景にピタリと重なってくる人物がいる――。

中日2軍投手コーチの大塚氏はU-23日本代表のコーチとして投手陣をまとめた

昨年から中日の2軍投手コーチに就いている大塚晶文氏(44)だ。

2006年のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)第1回大会で胴上げ投手となり、同年に移籍したレンジャーズで32セーブを挙げ守護神の座をつかんだ。しかし、その後に右肘を痛め離脱。08年に踏み切った右肘の靱帯修復手術では経過が思わしくなく、11年までの3年間で3度のメスを入れた。一時は真剣に左投げにも取り組み、再起への思いは揺らがなかったが、大リーグ復帰はかなわなかった。13年には日本の独立リーグで野球を続け、翌14年限りで現役を引退した。

若くして逝った母との契り

はじけるような笑顔が印象的な大塚氏だが、並大抵ではない苦難の道をたどってきた。

少年時代に家を離れていった父に代わり、母親が一家を支えていた。その最愛の母が病に倒れ、高校1年の厳冬に52歳の若さで急逝する。兄と姉、そして後見人に支えられ、プロ野球選手になる夢を抱き続けた大塚氏は言う。

「野球を続けることが母との約束でした」

小学3年になると、当時住んでいた千葉県こてはし台の少年野球チームに入った。4年生になったある日のことだった。監督から連絡を受けた母親は近所を探し回り、練習をさぼった息子をやっとのことで探し当てると、強張った表情でこう問い掛けたという。

「野球を続けるのなら今すぐ練習にいきなさい。辞めるのであれば今すぐ監督に言いにいきなさい」

このとき、母親の頬には一筋の涙が伝わった。10歳だった大塚氏が、幼心にも母の思いを察した瞬間だった。

「あの日から、子供ながらにも"自覚"が芽生えたような気がします。男として、スポーツマンとして、そして、人としての自覚ですかね」

決心を迫られたあの日の出来事は、亡き母との約束を果たす「本懐」へと変わっていったのである。

社会の厳しさが育んだ意地

11月6日(日本時間7日)、メキシコのモンテレイで開催されていた野球のU-23(23歳以下)ワールドカップ(W杯)第1回大会で日本は初代王者の座に就いた。好投を続けた投手陣をまとめていたのが大塚氏だった。チームにはプロ選手に交じり、社会人選手も数人選抜されていたこともあり、自身の社会人時代に話が及んだ。

大塚氏は東海大学から社会人野球の名門、日本通運浦和に就職する。入社前年に都市対抗で準優勝の好成績を収めたことで、野球部員の平日出社は免除され、豊富な練習量が確保された。ところが、入社した年は早々に予選で敗退し、特別待遇は剥奪(はくだつ)。通常勤務が始まった初日だった――。

「会社にも来ないで一日中練習してて、お前らはなんで負けたんだよ」

野球部の寮から通勤ラッシュの満員電車に揺られ、しばらくぶりに配属先の部屋に入ると、いきなり上司から厳しい言葉を浴びせられた。その直後、大塚氏が命ぜられたのはトイレ掃除だった。それを済ませると、伝票整理とトラックが運んできた荷物の仕分けに取り掛かった。

「重い段ボールを積み下ろしするのは結構つらいんですよ。腰にもよくないし」

そして、毎朝のトイレ掃除では手にしたブラシを動かしながら、心の中でこう叫んだ。

「絶対にプロになってやる!」

拳を握りながら語気を強めた大塚氏。しかし、今、改めて思うのは、野球部に対して好意的ではなかったその上司は、実は、自分を激励してくれていたのではないか……ということ。「あの頃の不満と我慢は、逆説的に、負けん気を吹き上がらせてくれたのでしょうね」と大塚氏は苦笑する。

ここで社会人時代のエピソードを一つ。

新入社員には作業服が2着支給されたが、大塚氏は友人の1着を拝借してプロ入りまでの3年間を過ごしたそうだ。理由は当時、井口資仁(現ロッテ)がいた青山学院大学との練習試合で果たした入部初登板で、痛烈な打球を顎に受けてマウンドで卒倒する大けがに見舞われたことだった。

記憶は飛び、気が付くと大塚氏は病院のベッドにいた。

「この大けがで4月1日の入社式前に行われた作業服の採寸にいけなかったんです」

ならば、退院後に採寸をすればよさそうなものだが、聞けば「けがで出遅れ、その年は都市対抗の埼玉予選で敗退。また5月には足の疲労骨折で休養を余儀なくされたこともあって、会社に言えませんでした」。

そこで、大塚氏は同じ配属先になった野球部員から一着を拝借する苦肉の策を講じた。ところが……。

その同僚は小柄だったため、ズボンの裾は短く上着はパンパンに張っていた。さらに作業靴も受け取れなかったために、皮の表面がささくれ立ち色あせたお古を先輩社員から譲り受け、新入社員が醸す初々しさとは程遠い格好で日々の業務に就いていた。

遠慮がちな人柄がにじみ出るエピソードだが、その姿を思い浮かべると、つい、吹き出してしまった。

心情に寄り添えるコーチ

目標に向かう人に判で押したように使われる「前を見据えるプラス思考」の惹句(じゃっく)は、大塚氏の歩みには添えられない。

大事な右肘に何度もメスを入れたあの頃、焦燥感は日増しに膨れ上がっていった。「正直、まともに寝られた夜は数えるくらいしかなかったです」と吐露する大塚氏は、大リーグのマウンドを経験した桑田真澄氏から贈られた「辛抱」の文字が書かれたボールを心のよすがとした。それでも、真夜中にベッドから飛びおき、取り乱すこともときにはあったという。

大学時代に交際を始めた明美夫人は、大塚氏がノンプロ入りした直後から「このまま社会人野球で終わったらどうすればいいか」と漏らすようになったと話す。

明美夫人が当時を述懐する。

「親がいて戻れる家があるわけではないということが常に不安となっていたようです」

ただ、退路のない境遇こそが自分の背中を押していたことも事実だった。

大塚氏は言い切った。

「もし、両親がいて何も心配ない家庭環境にいたなら、今の自分はなかったと思います」

将来に対する底なしの不安を身にまとい、選手生命を脅かすようなけがも、再起を懸けた手術も乗り越えた大塚氏には、もう一つの強みがある。

高校、大学、社会人を経たアマチュア経験と、日米のプロ野球、さらに、独立リーグで費やした2年間だ。これだけの段階を踏んだ野球人は大塚氏以外見当たらない。

「僕はあらゆるレベルのマウンドに立ってきたので、どの選手の心情にも寄り添えるコーチになれると思います」

日焼けした顔に白い歯をのぞかせた大塚氏は、こう結んだ。

「将来の目標はメジャーのコーチになることです」

一道を行く大塚氏の歩みは止まらない。

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