原田悠里さん 父の作業着に感謝のメモ

著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回は演歌歌手の原田悠里さんだ。
――小学校教員を務めた後にレコードデビューという異色の経歴ですね。
「私は熊本の天草育ち。町の映画館からいつも流れてくる歌謡曲を聞いては覚え、歌っていたんです。美空ひばりさんに憧れて、とにかく歌手になりたかった。けれど、農業高校の教員だった父は、一人っ子の私にも教員として着実に自立できる人生を歩んでほしかったようです」
――大学で教育学部に進んだのもそれが理由ですか。
「はい。それでも音楽が好きだったのでクラシックを専門に学び音楽教員になりました。教員として働く場所も、歌手デビューを目指し、少しでも東京に近い所をと、横浜市の公立小学校を選びました。教員の傍ら夜は弾き語りのアルバイトをする、きつい生活でした」
――ご両親は心配した?
「ある日、200万円でアルバムデビューできるという話が舞い込み、父に電話で振り込みを頼みました。翌日、アパートに戻ったら、男性用の靴がずらっと並んでいる。父が腕っ節の強い知り合いまで連れて上京していたんです。即座に『今から天草に連れて帰る!!』と有無を言わせない。必死に抵抗しましたが、翌日もその翌日も父たちがやって来て。ついに母まで上京させたんです」
――お母さんも反対だったのでしょうか。
「娘が、たらいで行水するような、風呂もないアパートに住んでいるのを見て『こんなに頑張っているのだから、もう少しやらせてあげて』と私を擁護してくれ、父も諦めざるをえず。父の涙を見たのはその時だけです」
――ご両親から受けた影響は。
「父は世間話には馬耳東風の無口な人で、まさに晴耕雨読の人格者。母は逆に明るくて感情を表に出すタイプ。私がメラメラとわき上がる感情で作品に込められた思いを歌うのも、そんな母から受け継いだ面があるのかも」
――紅白に出場した姿にお父さんは喜ばれたのでは。
「喜んでいてくれたと思います。10年前に突如他界しましたが、着ていた作業着のポケットから『皆さんのおかげで娘も一人前になれ、思い残すことはない』と感謝の気持ちを記したメモが出てきました。最期は立つ鳥跡を濁さず。他界する前日、畑ではいつも黙々と働く父がわざわざ近所の人に手を振り、当日午前中は母名義の銀行口座をつくりに行き……。畑で倒れている父を発見してくれたのは前日手を振った家の人でした」
――お母さんは今も天草?
「父が亡くなり東京に呼び寄せました。母は私のコンサートでもうつむいて祈るような感じ。観客の皆さんへの感謝なんですね。最近になってやっと顔を上げて舞台を見られるようになってきたみたいですけど」
[日本経済新聞夕刊2016年9月20日付]
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