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東京大会をお祭りで終わらせないために

2020年の東京開催が決まっているから、今回は五輪同様、パラリンピックも注目を集めてきた。日本選手の今大会の活躍はもちろん4年後に地元での祭典が控えていることと無関係ではないはずだ。

陸上女子400メートル(切断など)で期待に応えて銅メダルを獲得した辻沙絵の走りが印象的だった。ハンドボールから転向してわずか1年半だが、その走りから「メダルを取りたいんだ」という強い思いが伝わってきた。

「悔しい」は次なる目標に向かった証拠

女子400メートルでの辻の力走。メダルへの強い思いが伝わった=共同

アウトレーンの選手に先行されても慌てず、崩れることなく、冷静に自分のペースを守った。ハンドボールで体幹が強化され、バランスの取り方が養われているのだろう。走りは軽やかだ。陸上選手としての経験を積んでいけば、もっと走りが改善される余地がある。

競泳では視覚障害の木村敬一が連日、メダルを獲得した。ただし、最も得意とし、金メダルを狙った100メートルバタフライで銀に終わった。

本人は「悔しい」「金が欲しかった」と連発していたが、それはもっと進化するために発した言葉と受け取れる。そう口にした時点で、次なる目標に向かっている。

数々の栄冠に輝いてきた車いすテニスの国枝慎吾は男子シングルスの準々決勝で敗退した。右肘を手術した影響が大きかったのだろうが、王者も敗れるときがある。

試合後のインタビューに答える表情に悔しさがにじんでいて、つらそうに映った。相手はみな王者を倒そうと気持ちを充実させ、研究し尽くしてくる。それはある意味では光栄なことだ。

それにしても、パラアスリートのコメントは勝敗にかかわらず前向きで、力強さがあって気持ちがいい。

彼らは様々なことを乗り越えて、競技を続けている。生活するうえでも乗り越えなくてはならない問題があるわけで、日々、何かと闘っている。だから、どんなことがあろうがどうにかできる、どうにかしてみせるという心意気がある。

ある意味では恐れるものがない。肝が据わっているというか、度胸がある。本来、あるべき機能が備わっていないことを力にしている。

健常者が当たり前にこなせることが、障害者にとっては当たり前ではない。できないことがたくさんある。しかし、障害者は当たり前にできないことを嘆くのではなく、受け入れている。受け入れたことを源とする強さを感じる。

不自由だからこその「負けてなるものか」

連日メダルを獲得した木村。最も得意な競泳100メートルバタフライでは銀に終わった=共同

本当は喜ばしいことではないが、彼らは不自由であることにより、「負けてなるものか」という強さを獲得している。その強さがパラアスリートのコメントに表れている。

腕や脚がないことで、日常、手に届かないものがある。できないことがある。それはなぜかというと、いまの社会の構造が、すべての機能が備わった人間を基準にしてつくられているからだ。

「何の不自由も感じない世界」というのは、健常者にとって不自由ではないだけで、障害者を基準としたものではない。障害者が順応するには、様々な困難を乗り越えなくてはならない。多数派である健常者がつくった社会だから、少数派である障害者が苦労している。

パラリンピックを見ていると、そういうことに気付かされる。いろんな工夫をして、社会の構造を変えなくてはいけないという考えに至る。

今回のパラリンピックは、車いすバスケットボールや車いすラグビー、ゴールボールなどメジャーではない競技にスポットライトが当たる機会になった。

車いすテニスの国枝は3連覇を逃したが大会中は多くの競技が注目された=共同

障害のある人たちが「もしかしたら自分にもできるのではないだろうか」「すぐにでもやってみよう」と思ったかもしれない。いきなり競技を始めないまでも、障害者が「まずは体を動かしてみよう」と感じるきっかけになった可能性がある。

その流れを生かすには環境を整備し、障害者がスポーツをする機会と場をつくり、指導者を養成する必要がある。

現在は手弁当のボランティアとして指導をしている人がほとんどだが、競技の普及・強化を本気で考えるなら、指導者に報酬を払えるようにしていかなければならない。

そのほうが指導者の意識も高まる。まずは競技団体がしっかりとした体制を整えなくてはならない。

子どもたちがテレビ中継でパラリンピックに触れる機会ができたと思う。子どもたちは少なからず刺激を受け、何かを感じたはずだ。

東京大会後に何を残すか、考える好機に

障害者スポーツに興味を持っただろうし、社会には健常者ばかりではないということに気付いただろう。目の前に障害を持った人がいたら、何が必要なのか、どうしてあげなくてはいけないかを考えるようになったかもしれない。

子どもたちにとって、いろんな「気付き」があったはずだ。そこで終わりにしてしまったら、もったいない。「見て、刺激を受けた」で終わらせることなく、日常の教育の場で、子どもたちの心に芽生えたものを膨らませ、感性を伸ばしてあげてほしい。

4年後にはいよいよ東京で五輪、パラリンピックが開催される。今度は直接、目で競技に触れるかチャンスができる。間違いなく人々は熱狂するだろう。

しかし、大会を単なるお祭りにしてほしくない。それでは大会後に何も残らない。

東京での開催が決まったとき、多くの人が「やったあ!」と叫んだが、何をもって「やったあ!」なのか。どうして喜ばしいことなのか。その点をしっかり考えなくてはいけない。

五輪、パラリンピックをなぜ東京で開催するのか。大会を通して、何を獲得したいのか。大会をどう生かさなくてはならないのか。その意義づけがまだ、あいまいなままではないかという気がする。

レガシー(遺産)という言葉がよく使われるが、では、大会が終わったあとに何を残したいのか。大会後の社会をどう変えたいのか。その点をしっかり考えて大会を迎えないと、莫大なお金を投じて開催する意味がない。

(五輪女子マラソンメダリスト)

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