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競泳・萩野公介の強さの秘密 元コーチ2人に聞く

 リオデジャネイロ五輪の競泳男子400メートル個人メドレーで21歳の萩野公介(東洋大)が金メダルをつかんだ。バタフライ、背泳ぎ、平泳ぎ、自由形の4泳法の総合力が問われる過酷な種目で五輪を制したのは日本人で初めて。学童期から規格外の速さで年代別の日本記録を連発してきた天才スイマーの原点とは。萩野のジュニア時代を知る栃木・みゆきがはらスイミングスクールコーチの前田覚さんと、小学校低学年の1年半、愛知県在住時に通っていたスイミングクラブ元コーチ、八木(旧姓・祖父江)未来さんの2人に聞いた。
前田覚さん(小学3年から高校3年まで指導)

――小学3年でスクールに入会してきた萩野選手の泳ぎを初めて見たときの印象は?

「一番驚いたのは背泳ぎ。水をかくときに肩が水面から出ていた。水面の上を肩が越えていると水の抵抗が少なくなるのと同時に、遠くに手を運べて水をしっかりとかける。普通は高校生とか、ある程度体ができてきて初めて肩が上がるようになる。ずっと水泳のコーチをやっているが、背泳ぎで肩が水の上に出て泳いでいる小学生なんて後にも先にも公介以外、見たことがない」

「水中ドルフィンキックのスピードがすごく速かった。10歳以下の子だと苦しくて制限15メートルの半分も潜れず、7メートルくらいで出てきてしまう。それが、公介は15メートルぎりぎりまでいかにも苦しくないように潜り、それを何往復もササッとやっていた。水面から出て、泳ぎ始めた後もスピードが落ちない。ただ者ではないと思ったのが第一印象だった」

――そういう大器を指導することになり、どんな心境だったか。

「ここまでの逸材に育てた愛知の祖父江先生から、こんな宝物を預かって伸ばせなかったらどうしようというプレッシャーがあった。水泳を嫌いにさせないことを一番に心がけた。指導では必ず本人に『私はこう思うけれど、どうだい?』と問いかけながら、こちらが合わせていく感じにした。公介が『コーチ、これはしっくりこない』と言えば、『じゃあ、やめよう』と。天才というのは人と違うことができたり、ほかの選手がまねできなかったりするものを持っていると思う。そういう感性を崩してはいけないと思った」

パワーより効率的に水つかむ推進力

「自由形と背泳ぎで将来世界のトップを取れるという感じを受けていたが、本人は個人メドレーが好きだったので、絞らずに4泳法をやらせた。自由形も腕の運び、水を逃がさないキャッチ、フィニッシュまで無駄がなかった。小学生のときからタイムが出ないと『腕に水がかかっていない気がする』と言っていたので、キャッチをかなり意識していたと思う」

――水を逃さないキャッチができるのは腕力が強いからか。

「驚くかもしれないが、実は小学生時代、腕立て伏せが2~3回しかできなかった。でも、当時から規格外に速かったから腕力は関係ないと思う。パワーというよりも、効率的に水をつかんで推進力にする感覚が天才的だった。キックも同様で、脚でも水を逃がさなかった」

――キックのどこがすごかったか。

「まず、(当時から)足が大きかったから水をとらえる量が多い。さらには足先だけではなく太ももから脚全体で上手に水をとらえ、空気を蹴ることがなく、無駄がなかった。足首も柔らかく、水の中でも抵抗にならないしなやかなキックが打てていた」

「キックを打ち続けるとだんだん疲れてきて、普通は後半になると脚が沈み始める。でも公介のキックはエネルギーの浪費が少ないから、ずっと高い位置でキックを打ち続けられる。脚が沈まないから、抵抗が少ない真っすぐな姿勢を水中でずっと維持できる。強くて速いキックを高い位置でずっと打ち続けられるのが彼の最も優れたところ。(身長177センチと)背丈がなくても海外の選手と同じように速く泳げる理由はキックにある」

――中学2年のとき、ライバルの瀬戸大也(JSS毛呂山)に初めて敗れた。

「夏のジュニアオリンピックだった。大也は高速水着を着て出場した。でも、公介はいつもの短パン。私はレース前に『おまえも着ろ』と言ったが、公介のまたすごいところは『僕はこんな水着に頼らなくてもまだまだ速くなれるから着ない』と言った。やっぱりこの子は意識が違うと思った。それで負けたが、さらに練習に対する意欲が増した。『もっと頑張らないと負けてしまう』と、それから練習への姿勢が余計に強くなった。大幅に記録を伸ばし、中学3年できっちりリベンジした。大也というライバルの登場が公介をさらに飛躍させることになった」

才能ある子が誰よりも努力

――ほかに萩野選手の競技人生で転機となった出来事は?

「2つある。1つは、中学2年の冬に右膝半月板損傷で手術した。以前のように泳げなくなるのではないかと心配したが、結果的にこれも成長の糧になった。それまでは水の中にいる方が好きで、陸上トレーニングは苦手だった。でも、泳げない間は腹筋運動などをするしかなかったので、苦手な陸トレにも前向きに励むことを覚えた。手術後に本格的な水中練習を再開してわずか3~4日でレースに出場させた。50メートル背泳ぎなら泳げるだろうとエントリーしたが、まさかの中学記録を出した。あれで公介は『練習してなくても記録が出たのだから、自分にはまだ伸びしろがたくさんある』と大きな自信をつかんだと思う」

「2つめは、高校2年の2011年世界選手権代表選考会を体調不良で棄権した。以降もそのシーズンは調子が上がらず、大也が記録をどんどん伸ばす状況で、公介はいっこうに自己ベストが出なかった。ロンドン五輪を1年後に控え、本当に苦しかった」

「それが11月のワールドカップ(シンガポール)で突然、高校記録を連発した。聞けば『海外の選手は何が得意か分からないから、競ったときに負けないことだけを考えて泳いだのがよかった』と話していた。相手のことばかり考えて泳いでいたのが不振の理由だったようだ。あれで翌年のロンドン五輪代表選考会に向けて弾みがついた」

――そして、12年ロンドン五輪の出場権を獲得し、本番では400メートル個人メドレーで銅メダルを獲得した。

「公介はずっと順風満帆に来たと思われているが、決してそうではない。技術の高さばかり言ったが、彼は努力の天才。練習中にぶっ倒れてしまうんじゃないかとこちらが心配になるくらい限界まで自分を追い込める。才能のある子が誰よりも努力をしたから、ここまでの選手になったと思う」

八木未来さん(小学1年夏から小学2年終わりまで指導)

――小学校低学年のときの萩野選手の印象は?

「まず驚かされたのが持久力。50メートルを何本も泳ぎ続ける練習をさせると、普通の子は1本目より2本目、2本目より3本目の方がタイムが落ちる。それが、萩野君は記録をそろえたり、逆に後になるほどタイムを上げたりしていた。小学校低学年からそんなことができる子はいないから、当時のコーチ陣と『何十年に一人の逸材だね』と話していた」

――栃木の前田コーチは「祖父江先生が育てた宝物を預かってプレッシャーがあった」と話している。

「私が何か特別なテクニックを教えたわけではない。スクールに入ってきた当初から泳ぎは完成されていたので、変にいじらないようにした。私も『萩野君をここまでの選手に育てたのは誰だろう』と思っていた。お母様から『2歳くらいから1人ですいすい泳いでいた』と聞いて、またびっくりした」

「すぐに小学3~4年のクラスに『飛び級』させたが、しばらくするとお兄さんやお姉さんよりも先頭を泳いでいた。2年生になると、全国大会に出る4年生と同じようなレベルだったと思う。一緒に練習している子の中では学年が一番下だから背はうんと低いけれど、大きな子たちよりもずっと大きな泳ぎをしていたのが印象深い」

――指導するうえで何を重視したか。

「スクールの指導方針で得意種目ばかりをさせなかった。個人メドレーの能力アップが得意種目も伸ばすという考え方のもと、4泳法をまんべんなく泳がせた。1泳法だけをさせると使う筋肉が偏る。4泳法で体全体を総合的に鍛えていった」

――萩野選手は「祖父江先生の指導が持久力アップにつながった」と話しているが、1日にどれくらいの距離を泳がせたか。

「多いときは5千メートル程度。平均で4千メートルいくかいかないかだったと思う。ほかのスクールよりはその学年にしては多い方だったと思う。それでも楽しくて仕方ないという様子で泳いでいた。まだ低学年だったから、練習が苦痛とかしんどいとか感じる前の段階だったのではないか」

キック速くて強く、泳ぎも大きく

――当時からテクニックで光っていた部分は?

「キックが速くて強かった。あとは、自由形にしてもバタフライにしても泳ぎが大きかった。同じくらいの身長の子と泳いでも、ひとかきでたくさん進んでいた。あの水のつかみ方は私が教えたわけではないが、非凡なものがあった」

――当時はどんな性格だったか。

「みんな3年生から出場する全国大会に2年生から出ていた。どこに行っても年下だったので、みんなからかわいがられていた。人なつっこく、栃木なまりも残っていたので、本当にかわいかった」

――小学3年になる直前に父親の転勤で栃木に再び戻ることになったと聞いたときは?

「泣きました。ずっとこの子を教えたいと思っていたので、遠い場所に行ってしまうのが寂しくて」

――その後、萩野選手に会ったことは?

「私がほかの子を引率して全国大会に行ったときなどに会場で会うことがあった。そのとき、前田先生にもあいさつをして、先生が『必ず五輪選手に育てますから』とおっしゃっていた。それだけ大切に指導してくださっているんだと安心した。その後も前田先生と二人三脚でどんどん記録を伸ばしていくのをずっと応援していた。12年ロンドン五輪代表選考会で、前田先生と五輪行きを決めたときは感無量だった」

「競泳界では小学生のころにトップだった選手は大成しないというジンクスがある。学童期に速い選手は群を抜いて身長が高いなどフィジカル面に要因があるケースが多く、中学生くらいで周りの子の身長が追いついてきたら記録が同じになってしまう。ただ、萩野君はそれほど体が大きくなかったうえ、確かなテクニックがあったので小中学生では終わらない気がしていた。当時は線も細く、将来筋肉トレーニングなどをすればもっと伸びしろがあるとも思った。小学校低学年からここまでずっとトップを維持してきたのは本当にすごいことだと思う」

(聞き手は田村城)

 前田覚(まえだ・さとる) 1972年3月2日生まれ。宇都宮市出身。高校卒業後の90年、栃木県内のスイミングスクールに入社してコーチ業をスタートさせた。98年にみゆきがはらスイミングスクールへ。リオ五輪女子400メートル個人メドレー代表の清水咲子(ミキハウス)も育てるなど指導力に定評がある。
 八木未来(やぎ・みき) 1976年9月3日生まれ。岐阜県多治見市出身。東海イトマンスイミングスクール鯱(現イトマンスイミングスクール名古屋中村校)のコーチ時代、萩野を小学1年夏から小学2年の終わりまで指導した。旧姓・祖父江(そぶえ)。

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