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パンチ佐藤が語るイチロー 人一倍努力するウサギ

マーリンズのイチローが大リーグ通算3000安打という金字塔を打ち立てた。本名の鈴木一朗改め「イチロー」としてプロ野球記録のシーズン210安打を放ち、一躍スターダムにのし上がったのはオリックス時代の1994年だった。同年、「パンチ」としてイチローとともに売り出されながら、成績が振るわず引退したのが現在タレントとして活躍するパンチ佐藤さんだ。当時のエピソードや偉大な後輩への思いを聞いた。

遠目に見たキャッチボールに衝撃

「イチローとはあっという間に立場が入れ替わってしまった」というパンチ佐藤さん

――イチローの第一印象は。

「入団前はてっきり投手だと思っていたらプロでは僕と同じ右投げ左打ちの野手としてやっていくという。参ったなぁと思ったが相手は高校生。大学、社会人を経てプロでも経験を積んでいた僕にしてみれば、5~6年は抜かれないだろうと高をくくっていた。ところが2月のキャンプで初めて見て驚いた。長い手足にこなれたユニホームの着こなし、ランニングでの美しい走り方。何を取っても高卒ルーキーの雰囲気じゃない。衝撃を受けたのは遠目に見たキャッチボール。一直線に伸びる球筋を見て『あー、こりゃ参った』と圧倒された」

「練習量がまたすごい。2軍で結果を出さないと1軍には上がれない。炎天下のデーゲームの後、僕などは次の日に備えようと早く寝ていたが、イチローは夕食の後、黙々とマシン打撃で打ち込んでいた。それが終わるとウエートトレーニングだ。夜中の2時ごろまでやっていた。目先の結果よりも時間をかけて基礎をつくりたいと考えていたのだろう。ちょっとお金が入るとブランドものの時計やバッグを買う若手は多いが、イチローは見向きもしなかった。使っていたのは野球用具メーカーのミズノのバッグだ。その代わりバットにはこだわっていた。メーカーから供給してもらえない無名のころから、工場まで出かけて作ってもらっていた。ウサギが人一倍の努力をするのだからメキメキ実力がついた」

――今では「孤高」のイメージが強い。チーム内ではどんな存在だったのか。

「しっかりと自分を持っていた。イチローは細いバットのグリップエンドを余らせて握っていたが、当時の土井正三監督は『1番打者たるもの、太いバットを短く握るもの』との考えだった。それでもイチローは頑として聞かなかった。監督に面と向かって『監督は2~3年で代わりますが僕は僕のスタイルをつくりたいんです』と言うほど肝が据わっていた。監督から似たようなことを言われた僕は、バットを長くして短く握るという妥協策を取った。そうしたら打てなくなっちゃった」

「試合が終わるとグラブやスパイクを黙々と磨き、誰よりも遅くまでロッカールームにいた。野球に関するこだわりは強かったけれど生意気というわけじゃなく、典型的なB型のマイペースという感じだった。例えば知り合いの社長さんが焼き肉を食べに連れていってくれるようなとき。先輩の僕たちが食べ終わり、2次会のクラブに行きたくてうずうずしているのに、イチローはひとりで悠然とタンを焼いていたりする。そろそろ終わりかと思うと『ごはんを頼んでいいですか』。ごはんを食べ終えると『シャーベットお願いします』。先輩たちが『おまえ、いい加減にしろ!』とやきもきしていようが、本人はけろっとしている。試合のイニング間のキャッチボールを終えた僕がスタンドにボールを投げ込むファンサービスをしていたら、イチローもやるようになった。そういうファンサービスの精神は持っていた」

――94年にはパンチとイチローとして当時の仰木彬監督が売り出した。当時の経緯は。

「発案者は仰木監督ではなく打撃コーチの新井宏昌さんだった。イチローを売り出すのが本当の狙いだったが、無名の選手がひとり改名しては悪い意味で目立ってしまう。そこで僕とセットにしようということになった。だけど僕は既にパンチのニックネームが定着していて、今更登録名を変える必要はなかった。だから最初に仰木監督から持ちかけられたときは断った。監督はあっさり引き下がったが、数日後、ベンチで再び呼ばれた。てっきり代打起用かと思ったら『あの話、考えてくれたか』と。『イチローはパンチさんと一緒なら登録名を変えてもいいと言っている』という。サングラス越しの監督の目が『一緒に踊ってくれよ』と訴えていた。それで僕も踏ん切りがついた。実は監督はイチローにも『パンチはイチローがやるならやるという』と伝えていたようだ。いかにも仰木監督らしいやり方だ」

大リーグ通算3000安打を達成し、球場の電光掲示板に映し出されるイチロー=共同

これほどの高み、想像の範囲超える

「最初はマスコミも世間で名前が売れていた僕を多く取り上げていた。だがシーズンが始まるとイチローは期待にたがわず打ちまくった。オールスターの頃にはすっかり有名になり、僕との立場は入れ替わっていた。彼の実力からして名球会に入るぐらいの選手にはなるとは思っていた。大リーグに行くときも、試合数の多さや天然芝で内野安打が増えることを考えると、安打のペースは上がるだろうと予想できた。けれどもこれほどの高みは想像の範囲を超えていた。徹底した毎日の準備などイチロー自身の努力はいうまでもないが、ゲームセットの時間から逆算してごはんを炊き上げるといった奥さんの支えも大きいのだろう」

――同時に改名したのにイチローは大選手に成長し、自身は同年で引退した。嫉妬やひがみ、複雑な思いはなかったか。

「全くない。嫉妬をするにはレベルが離れ過ぎていたから。何度やり直しても同じ結果になるだろう。少年時代、家が貧しかった僕は野球で目立って安定した仕事に就くのが夢だった。だから亜大から熊谷組に入って月給やボーナスがもらえるようになった時点で目標を達成してしまった。さらに頑張ったら日本代表にも選ばれ、プロにもなれてしまったけれど、それは僕には"ご褒美"の領域。間もなくさめる夢の世界で、引退したら熊谷組の下請けをして暮らしていこうと思っていた。しかしイチローは少年時代からプロで活躍することを目指して野球をしてきた。動体視力を養うために、走っている車のナンバーを読むというような練習を日常的にしていたという。僕とはそもそもゴールが違った。今、イチローと連絡を取ることはないけれど、彼が活躍すればするほど、オレはあんなにすごい選手とロッカーが隣で、一緒にプレーしていたんだと誇らしくなる」

――今後のイチローへの期待は。

「二つある。イチローの記録にケチをつけているピート・ローズ氏を黙らせるぐらいたくさんヒットを打っちゃえというのが一つ。もう一つは、さすがイチローという格好いいやめ方をしてほしいということ。例えば好成績を残した年、突如『イチローのプレーができなくなった』と言い残して引退してしまうとか。どんなサプライズをみせてくれるか楽しみにしている」

(聞き手は吉野浩一郎)

 パンチさとう 本名は佐藤和弘。神奈川県の武相高から亜大、熊谷組を経て1989年のドラフト1位でオリックスに入団。主に外野手としてプレーした。プロ5年間の通算成績は260打数71安打、3本塁打、26打点。94年の引退後はタレントとして活躍している。51歳。

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