感性の天才、次は技術 競泳・池江璃花子(下)
生まれにも育ちにも、独特のエピソードがある。2000年7月4日、池江璃花子は自宅の風呂場で誕生した。母の美由紀が「赤ちゃんにとって負担の少ない最善の方法」と知り、家に助産師を呼んで水中出産した。水の申し子だった。
幼児教室を主宰する母は雲梯(うんてい)が乳幼児の脳の発育を促すとした海外の文献を読み、教室の天井に設置。2歳になると、大人の補助なしに遊べるようになった。雲梯で腕や肩、背中など水泳に欠かせない筋力が鍛えられたようだ。

水泳は姉と兄の影響で3歳から始めた。小学生時代に通った東京ドルフィンクラブ(東京・江戸川)コーチの清水桂は「当時は体力がなく、長い距離になるほど惰性で泳いでしまう。だから、25メートルと50メートルを全力で泳ぐ練習をメーンにした」。
25メートルという種目はないのに、その距離を喜々として泳いでいたというからほほ笑ましい。スプリンターの資質はここで磨かれた。小学6年の時にジュニアオリンピックの50メートル自由形で初めて全国優勝を果たす。
これまで自分やほかのスイマーの泳ぎを映像で研究したことがなかったという。母は「私が撮影したレースのビデオを、璃花子は一度も見たことがない。本人は『4年前のロンドン五輪しか覚えていない』と言っているけど、そのロンドンも全く見ていなかった」。
感性を頼りに自らの泳ぎをつくってきた天才が、最近になって映像からも学び始めた。4月の日本選手権中、世界のスピード感を頭にたたき込もうとロンドン五輪女子200メートル自由形決勝をビデオで観戦した。選手権の自分の泳ぎも、分析目的で見返したという。
その結果、「自由形は人に比べてストロークテンポがゆっくり過ぎると感じた」。そこで、「(持ち味の大きな)泳ぎの形は変えずに、テンポだけを速くしたいと思った」と改善に着手。リオデジャネイロ五輪を前に、水泳の探究に本格的に取り組むようになった。母は「(泳ぎの研究など)手つかずの面ばかりだったから、伸びしろしかないと思う」と言い切る。
23日、約3週間の欧州遠征から帰国した。海外のレースを転戦して感じたことがある。「日本だけではなく世界にも小柄だけど速い選手がたくさんいる。やっぱり水泳は体格だけではない。技術を磨けば、自分はもっと速くなれる」。視野を広げたことで、成長意欲がさらに膨らんだ。
五輪出場権をつかんだのは100メートルバタフライとリレー種目だが、将来性を買われ、リオでは自由形3種目(50、100、200メートル)にもエントリー。最大で日本勢最多7種目への出場となり、「タフなレースになりそうだが、若さパワーで頑張りたい」と笑う。
コーチの村上二美也は「あの大きな泳ぎは200メートル向き」と言いつつ、「20年東京五輪は(日本人の苦戦が続く)自由形短距離で勝たせてあげたい気持ちもある」。欲張りな挑戦をしたくなるほどの可能性を秘めた15歳。リオが壮大な夢への一歩となる。=敬称略
(田村城)