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米雇用は弱くない いずれドル高に(武者陵司)

武者リサーチ代表

「米国の衰退論がことさらに強調される。しかし、歴史的にも国際的にも、米経済の健全性はずぬけている。5月の雇用統計もしかり。市場の反応とは違ってドル高要因と解釈できる」

米大統領選における共和党のポピュリスト候補、ドナルド・トランプ氏の躍進などにより、米国の衰退論がことさらに強調される。しかし、歴史的にも国際的にも、米経済の健全性はずぬけている。

企業業績と自己資本利益率(ROE)などの利潤率は歴史的高水準にあるし、着実な雇用増が続き失業率は4.7%とほぼ完全雇用状態、賃金上昇率は2%を超え、2%のインフレ目標の実現も見えている。金融面では主要先進国で唯一、利上げが必要な状況にあり、米国のみが流動性のわなに陥っていない。つまり市場における資本配分機能が維持され、余剰資本が滞留していない。自社株買いと配当により企業は株式時価総額の5%の株主還元を行い、それが家計の資産所得を支えている。

この背景には労働、金融市場における公正な市場機能が維持され、空前ともいえる人工知能(AI)・情報技術(IT)革命によるイノベーションが活発に進行していることがある。技術革命とその成果を社会とビジネス、人々のライフスタイルに結び付ける市場と制度の柔軟性を持つ米国は、世界経済の唯一最大といってよい機関車である。

元米財務長官のローレンス・サマーズ氏など少なからぬ論者が、米経済の成長率がリーマン・ショック後屈折したことで、長期停滞に陥ったとの論評をしている。次期大統領は民主党のヒラリー・クリントン候補、トランプ候補ともに財政政策を活用することを主張しており、公的需要の伸びを大きく高める政策を遂行するだろう。それが長期停滞論を打ち破る結果になるかもしれない。

3日発表の5月の米雇用統計では非農業部門の雇用者増加数が前月比3.8万人と、16.0万人の市場予想を大幅に下回り、2010年9月以来の低い伸びとなった。通信企業のストによる特殊要因(マイナス3.5万人)を加えても7.3万人にとどまる。これが景気後退リスクの高まりを示唆しているとの見方が強まり、急速なドル安が進行した。

しかし雇用者増加数以外の雇用データはすべて順調といっていい。失業率は4.7%と8年半ぶりの低水準。週平均労働時間が横ばいの34.4時間となった結果、総労働投入量(民間雇用者数×週平均労働時間)は前月比0.1%増と3~4月並みの伸びが維持されている。また時間当たり賃金は前月比0.2%増、総労働所得(総労働投入時間×時間当たり賃金)は前月比0.3%増と高い上昇率が続いている。そもそも毎週発表される新規失業保険申請件数は過去最低記録を更新中であり、それは解雇が著しく減っていることを示している。

他方、人材紹介会社による求人充足日数はリーマン・ショック直後の15日から27日へと歴史的水準まで高まっており、求人が困難化していることを示している。これらからうかがえる姿は、為替市場の反応とは逆に労働市場の逼迫(=求人難)が雇用者増加数鈍化の原因となっていることを推測させる。失業率は完全雇用水準の5%から4.7%へと低下しており、求人難が進行していることはほぼ確かである。すでに米連邦準備理事会(FRB)の高官などは労働需給の逼迫により雇用者増加数が鈍化する一方、賃金上昇圧力が高まるとの観測を示している。

そうした観測は米国のマクロ統計とも整合的である。過去50年の米国の労働分配率の推移を振り返ると、景気拡大の前半では労働需給が緩慢で賃金上昇率が低く、労働分配率が低下した。しかし景気拡大の後半では労働需給逼迫により賃金上昇率が高まり、労働分配率が大きく上昇するというパターンが繰り返されてきた。足元では14年まで長期低下してきた労働分配率が、15年の後半以降、顕著に上昇していることが注目される。

つまり今の米国経済は、リーマン・ショック後、6年間にわたって経済停滞と労働余剰に苦しんできたがいよいよ、労働余剰が一掃されて完全雇用となり、デフレリスクが完全払拭されつつある状態だ。インフレリスクの高まりが、より現実的になってきているのである。このように5月の雇用統計での雇用者増加数の急減はむしろ米国景気の強さ、インフレ圧力の高まりを示唆している可能性が高い。そうであれば、それは市場の反応とは逆に利上げ促進、ドル高要因であると解釈できる。ドルの下落は一時的なもので再びドル高に転ずる可能性が強いと思われる。

過去のこれと似た情勢局面は1998年のロシア通貨・ルーブル危機である。ルーブル危機に対応しFRBは利下げにより流動性供給を図り、ドルはいったん大きく下落した。しかし、ルーブル危機が沈静化し、米国経済が堅調であることによって利上げトレンドが復活、99年から2002年まで再びドル高トレンドに戻った。98年のルーブル危機時の利下げとドル安は海外危機要因によって起きたものである。

今回の米国の金融緩和姿勢の強まり(利上げの先送り)も国内の景気懸念によるものではなく、もっぱら新興国、特に中国の金融不安に配慮したものである。それがドル安の原因であったわけで、まさしく98年型の米金融緩和姿勢とドル安であったといえる。米国経済は年後半から来年にかけて力強さを増してくる可能性が強く、そうなればドル高に戻るだろう。足元では15日にFRBが利上げを見送り、16日には日銀が金融政策の現状維持を決め、ドル安・円高が進んだ。英国による欧州連合(EU)離脱問題など影響が読み切れないファクターもあり、円相場は1ドル=100円程度までのオーバーシュートが起こりうる可能性があるが、その近辺で底入れし、年末から来年にかけて一定の円安水準(例えば110~115円のレンジ)に戻っていくと思われる。

武者 陵司(むしゃ りょうじ) 武者リサーチ代表、ドイツ証券アドバイザー。1949年9月長野県生まれ。73年横浜国立大学経済学部卒業。大和証券株式会社入社。企業調査アナリスト、繊維、建設、不動産、自動車、電機、エレクトロニクスを担当。大和総研アメリカでチーフアナリスト、大和総研企業調査第二部長を経て97年ドイツ証券入社、調査部長兼チーフストラテジスト、2005年副会長に就任。09年7月株式会社武者リサーチ設立。主な著書に「アメリカ 蘇生する資本主義」(東洋経済新報社)、「新帝国主義論」(東洋経済新報社)、「日本株大復活」(PHP研究所)、「失われた20年の終わり」(東洋経済新報社)、「日本株100年に1度の波が来た」(中経出版)、「超金融緩和の時代」(日本実業出版社)など。

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