パッとしない大リーガーが日本球界で化けるには
ノンフィクション作家 小野俊哉

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2016/5/29 6:30
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2008年夏、ボストン・レッドソックスの本拠地フェンウェイ・パークで僕の隣席にいたアメリカ人が自分はテキサス州の出だ、と話しかけてきた。「同じ地域出身のバンチという投手が日本のチームで活躍したと何年か前、地元紙に載っていた。マツザカ(松坂大輔)には及ばないが10勝ぐらいはしたんだろう?」というので「バンチ? 彼なら日本で最多勝をとったしノーヒッターになった」と説明すると、冗談のうまい日本人だと大笑いされてしまった。

マリナーズ時代は「三振ばかりでまれにホームラン」という打者だったバレンティン。来日後の3年間で別人になった=共同

マリナーズ時代は「三振ばかりでまれにホームラン」という打者だったバレンティン。来日後の3年間で別人になった=共同

バレンティン、米では振り回すだけ

バンチは2000年から中日で3年間プレーした。格安の年俸で契約し、来日2試合目にして無安打無得点を達成すると、14勝を挙げて最多勝を獲得した。しかし来日前のメジャーの成績は通算1勝3敗。四球が目立ち、前年にはマリナーズで5試合に登板したものの防御率11点台とまったく戦力にならなかった。

当時の日本人大リーガーはイチロー、松井秀喜のビッグ2を筆頭に松坂大輔、松井稼頭央、井口資仁、福留孝介、岩村明憲、黒田博樹、城島健司、岡島秀樹らが主力として活躍していた。日本野球のレベルが本場でも認識されるようになり、無名のマイナーリーガーが一夜にして日本の球史に名を刻んだとは、にわかには信じられなかったのも無理はない。

メジャーで日の目を見なかった選手が日本で大活躍した例は枚挙にいとまがない。1974年の中日ではメジャー経験がほとんどない来日1年目のマーチンが4番に座って35本塁打を打ち、巨人のセ・リーグ10連覇を阻止した。76~77年は長嶋茂雄監督率いる巨人を破り、75年を含めて日本シリーズで3連覇を達成した上田利治監督時代の阪急の二塁手マルカーノも、やはりメジャーリーグ未経験。来日した75年から6年連続して20本塁打以上を放ち、打点王も取った。ダイヤモンドグラブ賞も4回獲得し、攻守の中心になった。マルカーノの後釜ブーマーも大リーグでは本塁打ゼロの無名の一塁手だったが、阪急では打ちまくり、外国人初の三冠王に輝いた。10年間の通算打率3割1分7厘は右打者の歴代ナンバーワン(4000打数以上)としていまだに破られていない。

ヤクルトのバレンティンを取り上げたい。カリブ海に浮かぶキュラソー島出身の彼は19歳からマイナーリーグでプレーし、23歳の時にマリナーズでデビューした。2007~09年の3年間で170試合に出て打率2割2分1厘。15本塁打を放っているが、三振はその10倍(149)も喫していて「ホームランか三振か」というより「三振ばかりでまれにホームラン」という打者だった。

バレンティン(右)の打撃スタイルの変化はカウント別の本塁打数からも見て取れる=共同

バレンティン(右)の打撃スタイルの変化はカウント別の本塁打数からも見て取れる=共同

2ストライク後、本塁打の数が増加

日本新記録の60本塁打を放った13年、マリナーズ時代を知るイチローが「米国であのクラスの選手が日本でそれだけ活躍するということは、少し難しいというか、複雑な部分もある」とコメントしたが、それは振り回すだけの米国でのバレンティンをイメージしていたからだろう。

バレンティンは来日後の3年間で別人になった。1年目の11年は31本塁打を放ったものの、打率は2割2分8厘。リーグトップの131三振を喫し、粗さが目立った。ところが60発の13年は打率3割3分。三振は105まで減らす一方、四球は1年目より7割近く多い103まで増やしている。粗さが薄れ、確実性が向上した。

打撃スタイルの変化はカウント別の本塁打数から見て取れる。1本塁打に要する打数を「本塁打率」と呼ぼう。バレンティンのシーズンごとの成績を追っていくと、ともに31本塁打でタイトルを獲得した来日1、2年目と、60本塁打の3年目で最も変わったのが2ストライク後の本塁打率だ。

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