かまれたら「責任は誰に」 奈良とシカの物語(1)
軌跡
「せんべいをやろうとしたらかまれた。奈良の鹿は狂犬病の注射を打っているのか」
観光客が鹿にかまれたと連絡を受け、現場に駆けつけた「奈良公園のシカ相談室」の吉村明真室長は中国人観光客にまくしたてられた。吉村室長は中国語で書いた1枚の紙を見せて観光客を落ち着かせ、持参した救急箱から消毒薬と傷薬を取り出して簡単な手当てをした。けがが深刻な場合は病院を紹介し、通訳ボランティアとも連絡を取る。

持参した紙にはこう書かれている。「奈良の鹿は千年以上前からここに生息している野生生物で、けがをされた方に対し補償をする者はいません。奈良の鹿にかまれて狂犬病などにかかったという事例は一度もありません」。英語や韓国語の文書もある。「日本と違い中国では狂犬病による死者が毎年多数発生しており、鹿にかまれると神経質になる観光客が多い」と吉村室長は言う。
2013年に奈良市を訪れた観光客は約1380万人。このうち外国人は約43万人で増加傾向が続く。奈良公園は海外では「ディア・パーク」(鹿の公園)として知られ、日本や奈良の歴史・文化にそれほど関心がない観光客を奈良に呼び寄せる重要な観光資源になっている。
だが奈良公園の鹿が野生であることを知る人は少ない。このため観光客は鹿にけがをさせられると、ペットの犬にかまれた時のように、怒りの矛先を公園管理者である奈良県などに向けることになる。そんな観光客への対応を担っているのが相談室だ。
野生の鹿にかまれても、手当ての義務は誰にもない。しかし「鹿が国の天然記念物に指定されており、重要な観光資源となっている奈良県としては、観光客の被害を無視できない」(奈良県知事公室の中西康博審議官)。そこで2010年に県が音頭をとり、苦情や相談専門の窓口として相談室が発足した。現在は民間団体に所属している。
相談室ができるまで、けがをした観光客や鹿の食害にあった農家への対応は「奈良の鹿愛護会」が担っていた。だが愛護会は名前の通り鹿の保護を目的とする民間団体だ。現在は観光客や農家から被害の連絡が入ると、愛護会の職員は相談室の職員とともに現場へ急行する。人への対応は相談室が担い、鹿の保護などは愛護会職員が行っている。
牧場の牛や馬のように飼い主がはっきりしていれば、被害が出た時の対応は簡単だ。奈良の鹿は人に慣れてはいるが、あくまでも野生。だからこそ住民と鹿が千年以上も共生する街として海外からも評価され、天然記念物にも指定されている。しかし人と鹿との共生はいつの時代にも様々な問題を抱えていた。
奈良支局長 松田隆が担当します。
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