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高度成長期に「貸工場」も 東大阪 住工共生の奮闘(2)
軌跡

2017/7/26 6:00
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 東大阪市のものづくりの歴史は江戸期まで遡る。鋳物技術を生かして農具などが作られたほか、生駒山系の急流に設置した水車を利用して鉄や銅を線状に伸ばす産業などが発達した。明治期に木綿産業が衰退すると大阪市内に出た職人が金網やはさみ作りなど様々な技術を身につけて戻ってきた。大正時代に大阪電気軌道(近鉄奈良線)の開通で電気が供給されたのも後押しした。

未舗装の道路に工場が立ち並ぶ昭和30年代の高井田西3丁目=公泉インキ製造提供

未舗装の道路に工場が立ち並ぶ昭和30年代の高井田西3丁目=公泉インキ製造提供

 戦後は高度成長の波に乗る。地方から出てきた職人が親方のもとで腕を磨き、「貸工場」と称する作業場で独立。貸工場は1970年代半ばごろまで建て続けられ、最盛期には市内に約500棟あったという。

 市内の製造業に詳しい大西正曹関西大学名誉教授は「昭和30年(1955年)代以降、地主が地代を稼ぐために建てたのが一因」と指摘する。高井田地区で50年近く自動車整備業を営む大和サービスの平井義郎社長は、「未舗装の道路が多かった。工場の2階で経営者一家が暮らすのもごく普通だった」と振り返る。

 しかし、80年前後に市内1万カ所、高井田地区だけで1000カ所を超えていた工場の数は、円高やバブル崩壊後の不況で減少に転じた。工場移転、業績不振や後継者難による廃業などを受けて跡地には住宅やマンションが建てられた。大阪市内から近いうえ、工業地域であるため地価が安いのも開発に拍車をかけた。

 「購入希望者は工場が休みの週末に見学に訪れるので、住んだ後に平日の騒音に驚いた」(市モノづくり支援室)とされ、市には多くの苦情が寄せられた。

 市内の工場数は6321カ所(2014年経済センサス基礎調査)、高井田地区は約600カ所まで減ったとみられる。市はものづくりのまちをアピールする半面、危機感は強い。

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