2019年5月26日(日)

城崎限定本 めざせ「地産地読」 温泉文学で町沸かす(ひと最前線)

2016/6/23 6:00
保存
共有
印刷
その他

志賀直哉の「城の崎にて」をはじめ、多くの文人が足跡を残してきた城崎温泉(兵庫県豊岡市)。今、旅館の若旦那衆がスクラムを組んで文芸書を出版し、「文学の町」再興に挑んでいる。関西ゆかりのベストセラー作家に城崎を舞台にした新作を書き下ろしてもらい、温泉街だけで販売する。目指すのは「地産地読」だ。

7月1日発売の新刊書「城崎へかえる」。仕事に疲れて城崎を訪れた女性が名物の外湯に漬かり、カニ料理を楽しみながら、母の思い出を振り返る。著者は「告白」などで知られる淡路島在住の湊かなえ(43)。「ネットでどこでも本が買える時代に、そこでないと買えないのは面白い」と執筆の依頼を受けた。

版元は温泉街に事務所を構えるNPO法人「本と温泉」。2013年、40歳以下の地元旅館経営者16人が集まって設立した。この年は志賀が城崎を初めて訪れてからちょうど100年。理事長を務める大将(たいしょう)伸介(39)、志賀が泊まった三木屋の十代目、片岡大介(35)らは「文学の町として売り出すため、志賀の本を作っては」と思いつく。

ただ出版に関してはずぶの素人ばかり。考えあぐねていると、首都圏からUターンしてきた人からある人物を紹介された。東京でブックディレクターとして活躍する幅允孝(はばよしたか、39)だ。早速城崎を訪れた幅は「『文学の町』は時計の針が止まった状態」と感じ、アップデートの必要性を説く。

まず「城の崎にて」が読みやすいように注釈付きでの刊行を提案。現代作家による新刊発行も持ち掛けた。大将らは案に乗り、時計の針は再び動き始める。

二つの企画を同時並行で進めた。書き手として白羽の矢を立てたのは大阪府出身の万城目学(40)。「鴨川ホルモー」「プリンセス・トヨトミ」など関西を舞台にした作品を発表してきたが、兵庫県内はまだ書いていなかった。幅は、万城目が志賀の短編「清兵衛と瓢箪」を高く評価していたのにも着目。城崎との縁を感じたという。

万城目は幅の依頼にこたえ、13年12月と14年5月に城崎温泉に滞在。著者自身と思われる「私」が志賀の足跡を追体験する短編「城崎裁判」を書き下ろす。NPO法人は13年9月、第1弾として注釈付き「城の崎にて」、14年9月に「城崎裁判」を刊行した。

当初、本を販売していたのはNPO法人のメンバーの旅館だけ。しかし、売れ行きが伸びるに従い取扱店が増え、現在、旅館や土産物店など計50店で並ぶ。電話申し込みは受け付けず、城崎限定販売にこだわる。「とがった売り方でいこうと考えた」と片岡。

普通の書籍と違って取次(卸)を通さず、書店には並ばないのを逆手にとった奇抜な装丁が目を引く。「城の崎にて」は観光客が浴衣のたもとに入れてぶらつけるように豆本サイズ。「城崎裁判」はお湯に漬かりながら読めるように耐水性の紙を使い、カバーはタオル地にした。幅は「直販だから思い切ったことができた」と話す。

売れ行きは上々だ。「城の崎にて」は2700部刷って残りわずか。「城崎裁判」は2回増刷し、計4700部がほぼ完売した。同書を目当てに遠方から訪ねてくる万城目ファンも多く、さらに3000部を増刷する。

初刷り3000部の「城崎へかえる」はカニを食べる場面にちなみ、カニ脚そっくりな紅色の筒状ケースに入っている。カニの身を殻から外すように、本を取り出す仕組みだ。

「お土産にもいいのでは」と湊も気に入った様子。湊はこの7年間、年末に家族と城崎を訪れている。「『本と温泉』から声がかかったら、作家が光栄と思えるようになれば」と後押しする。慣れない出版業に汗を流す大将らは「第10弾まで出したい」と意欲満々だ。=敬称略

(編集委員 小橋弘之)

保存
共有
印刷
その他

電子版トップ



[PR]

日本経済新聞社の関連サイト

日経IDの関連サイト

日本経済新聞 関連情報