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30年前の熱気よ、もう一度 阪神タイガース、天地を行く(1)
軌跡

2015/2/17付
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阪神タイガースは12月、球団創設80周年を迎える。球団史上、最も盛り上がりを見せたのは日本一となった1985年だろう。2リーグ制の下で唯一の日本一だ。関係者に振り返ってもらった。

日本一を決めナインに胴上げされる吉田監督(1985年11月)

日本一を決めナインに胴上げされる吉田監督(1985年11月)

同年から2度目の監督として指揮したのが吉田義男さん(81)だ。まず手掛けたのは真弓明信二塁手と岡田彰布外野手のコンバートだった。「打つ方はいけると思っていたが、センターラインを強化したかった」と狙いを話す。

外野手起用を打診すると、真弓選手は快諾してくれたという。もともと内野手だった岡田選手と平田勝男遊撃手との二遊間が初めて実現した。

投手起用にも腐心した。4月17日の甲子園球場の巨人戦。ランディ・バース、掛布雅之、岡田選手の3打席連続のバックスクリーンへの本塁打で逆転勝利した試合だ。吉田さんは「中西の活躍が大きい。清水の舞台から飛び降りるつもりで投入した」と述懐する。

この試合、追い上げる巨人を抑えて初セーブをあげ、守護神に育った中西清起投手のことだ。京都出身の吉田さんが清水の舞台というから相当の覚悟だったに違いない。巨人に3連勝し勢いに乗った。

10月16日に21年ぶりのリーグ優勝を決め、吉田さんは神宮球場の胴上げで宙に舞った。同年の本塁打219本は当時のセ・リーグ記録だ。

日本一を決めたのは11月2日の日本シリーズ第6戦。一回表に長崎啓二選手(当時)が満塁本塁打を放った。シリーズ全体で印象に残ったのは岡田―平田の9併殺という。併殺にこだわり続けた元遊撃の監督らしい感想で、センターラインは完成した。

吉田阪神は86年に3位だったが、87年に打撃力低下で6位に転落した。10月に球団に監督解任を通告された。3年で日本一の「天国」と最下位の「地獄」を味わった吉田さんは当時のメンバーと親睦会「天地会」を開いている。

吉田さんは2014年末、85年入団で天地会の若手の和田豊監督(52)に声をかけた。「悔いが残らないよう自分の思う通りにチームをつくれ」。「日本一をぜひもう一度」と願いを込めて。

東京都出身ながら小学生時代から阪神ファンの筆者は84年、大阪に初赴任した。阪神フィーバーに沸いた85年は関西国際空港などの準備が進み、関西に活気があった。当時の住友信託銀行は優勝直前、経済効果を400億円としたが「最終的に1000億円ほど」との説もある。

吉田義男 1933年京都府出身。53年に入団し、ベストナインに9度選ばれた名遊撃手。阪神監督を3度務めた。

編集委員 種田龍二が担当します。

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