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クーデターで新政府樹立 幕末維新の群像(5)
軌跡

2016/9/21 6:00
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薩摩と長州は武力による討幕を目指したのか、開戦のきっかけは何か、などについて歴史学者の見解は様々だ。

15代将軍、徳川慶喜は弁舌の巧みな策略家だった。慶応3年(1867年)5月、渋る朝廷を説き伏せ、神戸を12月に開港することを決めた。欧米列強が京都に近い神戸(兵庫)開港を強く求めていた。

慶喜を独裁的と疎ましく思ったのが、京都で暗躍する薩摩の下級藩士の大久保利通と西郷隆盛だ。武力で脅し、将軍職の辞任を迫ろうとした。

危険を察知した慶喜は機先を制した。土佐藩の後藤象二郎や坂本龍馬の勧めに応じ、慶応3年10月に政権を朝廷に返上する「大政奉還」をし、将軍職の辞表も提出した。もっとも慶喜は将軍は辞めても外交など政治の第一線にとどまるつもりだった。

慶喜一派の排除をもくろむ大久保や西郷は、有能な下級公家の岩倉具視や有力諸藩と謀り、12月9日に御所で王政復古のクーデターを起こした。慶喜に近い摂政など朝廷首脳や会津・桑名藩主の職を奪って追放し、天皇を頂点とする新政府を創設した。

薩摩軍が御所を封鎖して出入りを禁じたが、「クーデターが目指したものは無血の新政府樹立であり、武力による討幕ではなかった」(故佐々木克・京都大学名誉教授)。

新政府のかじ取りは多難だった。徳川家の領地を没収することに、土佐や福井の有力な大名経験者が反対し慶喜をかばった。12月24日までに慶喜の新政府入りが内定し、大久保や西郷は劣勢に立たされた。25日に江戸で薩摩藩邸焼き討ち事件が発生。家近良樹・大阪経済大学教授は「怒った薩摩はこの時、藩を挙げて戦争を決断した」と話す。

慶応4年(1868年)1月3日、大坂城に退いていた会津・桑名の旧幕府軍が薩摩討伐をかかげて京都に進軍した。薩摩・長州の新政府軍が砲撃し、鳥羽・伏見の戦いが始まった。青山忠正・仏教大学教授は「薩長は徳川方とのせめぎ合いの手詰まり感を打破するために開戦した」と指摘する。岩倉の策略で新政府軍に天皇の錦の御旗が上がり、慶喜が将兵を残して大坂から江戸に逃げ、勝敗は決した。

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