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禁門の変、攘夷熱が冷める 幕末維新の群像(3)

軌跡

京都人が口にする「前の戦争」とは何を指すか。歴史学者の五島邦治・京都造形芸術大学教授は「応仁の乱とよく言われるが、やや誇張がある。これに対し、禁門の変は実感としてある」と話す。「曽祖父母や祖父母の代から、大火の被害の言い伝えが記憶にあるからだ」と説明する。

蛤御門は現在より東寄りにあり南北に向いていた(京都市)

禁門の変(蛤御門の変)とは、八月十八日の政変や池田屋事件で窮地に立った長州藩が元治元年(1864年)7月19日に京都に進軍した事件だ。会津藩主の松平容保を討ち、孝明天皇に長州藩主毛利家の名誉回復を嘆願する名目だった。御所の蛤御門で会津・桑名藩と武力衝突した。

西郷隆盛の率いる薩摩藩兵が会津・桑名に加勢し、長州は敗走した。吉田松陰の直弟子の久坂玄端ら攘夷(じょうい)志士が多数戦死した。「戦火が翌々日まで燃え広がり、御所の周りから現在の京都駅北側までの地域の3分の2を焼き尽したことが瓦版の史料で分かる」(五島氏)。御所の西南に立つ蛤御門の柱には多数の弾痕が残っている。

禁門の変から間もない8月上旬、長州は下関で英仏米蘭4カ国の連合艦隊と戦った。敗れた長州は「戦闘は将軍の命令に従ったまでだ」として戦争責任をとらず、幕府が4カ国に巨額の賠償金を肩代わりし支払った。この始末により、日本全土を覆っていた攘夷論の熱は急速に冷めた。

蛤御門で長州を撃退した薩摩の西郷は9月、幕府の軍艦奉行の勝海舟と大坂で面会した。幕府を見限っていた勝は西郷に「内戦をしている場合ではない。薩摩や長州など有力藩の合議体制で国家づくりをすべきだ」と説いた。

禁門の変後、西郷は幕府の第1次長州征討の参謀に就くが、勝の思想に共鳴した西郷に長州と再び戦火を交える考えは無かった。西郷は説得により長州を降伏させた。

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