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政治の中心 京都に移る 幕末維新の群像(1)
軌跡

2016/9/13 6:00
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江戸時代末の動乱や明治維新の舞台は関西だった。新選組の近藤勇、長州の木戸孝允、薩摩の西郷隆盛、大久保利通らは歴史の転換点で何を考え、どう動いたか。幕末維新の群像を6回連載する。

新選組の芹沢鴨が斬殺された時の刀傷が鴨居に残る八木家(京都市)

新選組の芹沢鴨が斬殺された時の刀傷が鴨居に残る八木家(京都市)

幕末の関西は天誅(てんちゅう)と称する暗殺テロが相次いだ。「特に京都では、確認できるだけでも161件の天誅事件が起き、幕府の役人や幕府寄りの豪商・僧侶が鴨川に遺体をさらされた」と霊山歴史館(京都市)の木村武仁・学芸課長は指摘する。天下太平の時代は終わり、公家や町衆は恐怖におののいた。

テロ実行者は、天皇を尊び外国を排斥しようとする尊皇攘夷(じょうい)派の武士たちだ。きっかけは、米国ペリーが来航した5年後の安政5年(1858年)、江戸幕府が欧米列強5カ国と通商条約を結んだことだ。天皇の許可を得ずに欧米の一方的な要求をのんだため、尊皇攘夷運動が過激さを増していった。

京都がテロ震源地となったのは「孝明天皇や公卿の朝廷の発言力が高まり、政治の中心地が江戸から京都に移った」(家近良樹・大阪経済大学教授)からだ。京都政局を支配したのは長州藩だった。

こうした情勢下の文久3年(1863年)3月、14代将軍の徳川家茂が京都に入った。京都勢の幕府批判をかわす狙いだった。幕府は治安を憂慮し、家茂の身辺警護をする浪士を募った。剣術に自信があれば身分は問わなかった。武蔵国多摩の農家出身の近藤勇や土方歳三、水戸藩浪士の芹沢鴨ら200人超が集まった。この一部が後の新選組となる。

8月、攘夷を強行しようとする長州藩や三条実美ら公卿7人を京都から追放するクーデターが起きた。公武合体派の薩摩藩や会津藩による「八月十八日の政変」である。近藤や芹沢ら浪士組は会津藩のもとで御所を警備した。働きが認められ、新選組の隊名を授かった。

新選組の屯所になった武家屋敷2軒が京都市中京区の壬生地区に現存している。このうち「八木家」の屋敷は有料で一般公開している。新選組内の粛清で芹沢が斬殺された時の刀傷が生々しく部屋の鴨居(かもい)に残っている。

京都支局長 岩田敏則が担当します。

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