堺の住所、「丁目」はなく「丁」(謎解きクルーズ)
夏の陣で焦土、区画整理、町名乱立で簡略化 400近くの町の名残

2015/9/12 6:00
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今春堺支局に着任し、新しい名刺を作ろうとしてハタと気付いた。住所が「北花田口町3丁2-6」。「丁目」じゃなくて「丁」になっている。支局だけでなく、市内を歩くとあちこちで丁の住所を目にした。転勤や取材で国内各地に足を運んだが、丁の表記に出合ったのは初めてだ。これはなぜか、ちゃんと調べなくてはなるまい。

通称を含めた町の数は400近くに及んだ(1704年当時の姿を記した堺市古図)=堺市立中央図書館蔵

通称を含めた町の数は400近くに及んだ(1704年当時の姿を記した堺市古図)=堺市立中央図書館蔵

まずは堺市役所の戸籍住民課を訪ねてみた。「はっきりした資料はないが、美原区を除いた堺の地名が丁なのは、江戸時代の『元和(げんな)の町割り』に由来するようです」。「なんで丁なの?」というぶしつけな質問にもかかわらず、松尾泰仁課長は立て板に水といった感じで説明を始めた。一緒に応対した同課の永井智恵さんが「市外の人からもよく問い合わせの電話がかかってきますよ」と明かしたように、同じ疑問を持つ人は少なくないらしい。

松尾課長の説明はこうだ。1615年(元和元年)の大坂夏の陣で、堺は焦土となった。その後徳川家康の命により、南北の大道筋(紀州街道)と東西の大小路通を基軸にして碁盤の目のように区画整理され、整然とした町に生まれ変わった。これを元和の町割りという。

新しくできた町割りには細かく町名が付けられ、通称を含めた町の数は400近くに及んだ。ただ、これでは多すぎて地元民でも覚え切れない。そこで大道筋に面した24の主要な町名と、大道筋に平行する南北の筋の名前を組み合わせて呼ぶようにした。例えば「市之町」の少し東にあった「南大小路町」は、「市之町」と「山口筋」を合成して「市山の口」と呼んだ。

とはいえ、よそから来た人にはまだ分かりにくい。1872年(明治5年)の町名改正でさらに簡略化し、丁が生まれた。24の町名はそのままに、大道筋の東側は○○町東1丁、東2丁……、反対の西側は○○町西1丁、西2丁……と、大道筋から離れるほど数字が増えるよう丁名を付けた。

東1丁や西2丁になった場所はもともと、独立した町だった。そのため、1つの町を細分化する意味を持つ「丁目」はなじまず、町と同格の意味である「丁」を使うことにしたらしい。南大小路町(市山の口)は「市之町東1丁」になった。丁の字を「町」と書いたこともあるという。

古くからの市街だけでなく、泉北ニュータウンのような新しい街も「丁」を使っている。こうした地区では町を細分化する意味合いなので、本来は「丁目」を使うところ。しかし、市民から「丁と丁目が混在すると分かりにくい」との声があがったため丁に落ち着いた。かつては市議会でも「目」をつけるか議論されたが、由緒ある丁の表記を守るべきだとの意見が強く、丁で統一することになった。

松尾課長は「これほど広域で『丁』を使う自治体は堺だけだろう」と話す。ただ、2005年2月に編入された旧美原町(現在の美原区)地域だけは、歴史的な経緯から「丁目」を使っている。

実は調査中に和歌山市や仙台市でも一部町名に「丁」を使うことが分かった。だが、その理由は全く異なる。「かつて武家屋敷があり侍が住んでいた地区は『丁』を使い、町家が並んでいた地区は『町』を当てている」(和歌山市立博物館)という。

翌日、地元の図書館で昔の堺の地図を探してみた。1704年当時の街の姿を記した古地図を広げると、現在とは違って町割りごとにぎっしり町名が書き込まれていた。確かに覚えにくいかもしれないが、機械的な数字よりも味わいがある気がする。丁と丁目は1文字違うだけだが、なかなか奥は深い。

(堺支局長 小島基秀)

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