2019年5月25日(土)

奈良・十津川村 なぜ「東京弁」(謎解きクルーズ)
険しい峡谷 関西弁阻む

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2014/10/4 6:30
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古代から、十津川村は独自の歴史を歩んできた。672年、大海人皇子(おおあまのみこ、後の天武天皇)が大友皇子(おおとものみこ)の軍勢を破った壬申(じんしん)の乱では、十津川郷士と呼ばれた集団が出兵。戦功をあげて公租を免れる免租地となり、それは明治維新の地租改正まで1200年も続いたという。地勢と、藩に頼らない自治権が長く認められたことが自主独立の精神、独自の言語を育んだのだろう。

方言分布では、民俗学者の柳田国男が唱えた「方言周圏論」が知られる。都を中心に方言が同心円状に分布しているという説だ。松本清張の推理小説「砂の器」で、島根県出雲地方に東北弁に似た方言が存在し、事件解決の重要な鍵となり有名になった。

奈良出身の中井教授は「近畿でも日本海側には東京式アクセントの地域がある」と指摘。その上で、「十津川村は直線では都からそれほど遠くないが、険しい地形を考えると実質的な距離は遠い。そう考えれば周圏論が当てはまる」とみる。

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十津川村が京阪式アクセントではない背景は見えてきたが、なぜ東京式なのか。考えを巡らせていると、松実さんが「あくまで仮説」と前置きして話し始めた。「南北朝から室町時代、都で多くの戦があった。足利尊氏と戦った新田義貞軍など関東武士も多く、南へ南へと逃れた落ち武者が十津川村にたどり着き、関東の言葉を広めた」

十津川村には落ち武者の伝承や痕跡が数多い。源義経が逃れたという説や、平維盛の墓とされるほこらが存在。「楠木正成の孫に当たる楠正勝、織田信長に仕えた佐久間信盛の墓所がある」(村観光振興課)。幕末には天誅組の変に加わった十津川郷士に象徴されるように、代々剣道が盛んな土地柄。武骨な関東武士の気質が受け継がれたと想像することもできる。

深い緑と谷に囲まれた十津川村は独自の言葉を守り、壮大な時のロマンが流れる土地だった。心を弾ませ帰りのバスに乗り込んだ。

(大阪・文化担当 多田明)

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