難波橋と和歌山 うり二つのライオン像(謎解きクルーズ)
なにわの相場師、故郷に錦 出世の地のシンボル 同じ作者に制作依頼

2015/7/4 6:00
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大阪・中之島を挟んで北浜と西天満を結ぶ難波橋(なにわばし)。南北のたもとで4体の大きなライオン像が道行く人や車を見下ろす。地元の人から「ライオン橋」とも呼ばれ、親しまれているが、実はうり二つの石像が和歌山にあるという話を聞いた。真相を追った。

架橋と同時に設置された難波橋のライオン像は四隅でにらみをきかせている(大阪市中央区)

架橋と同時に設置された難波橋のライオン像は四隅でにらみをきかせている(大阪市中央区)

発端は大阪歴史博物館の学芸員、船越幹央さんとの世間話。こちらが「会社が天満橋から北浜に移転したばかりで」と切り出すと、「北浜といえば難波橋。実は和歌山にも同じライオン像があるのをご存じですか」と船越さん。

10年ほど前、船越さんが近代建築の調査で出向いた和歌山市で偶然目にし、一目で難波橋の像とそっくりだと気付いた。大きさを測り、後日、難波橋の像にも登ってメジャーを当てる。「通行人の視線は気になったが、和歌山と全く同じ寸法だったのに驚きました」

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早速和歌山へ向かう。JR・和歌山電鉄の和歌山駅から車で10分。「がんこ和歌山六三園」に着いた。かつて和歌山有数の格式を誇った料亭で、現在は和食レストランチェーンのがんこフードサービス(大阪市)が運営している。

「がんこ和歌山六三園」にあるライオン像は難波橋のものと寸法も同じ(和歌山市)

「がんこ和歌山六三園」にあるライオン像は難波橋のものと寸法も同じ(和歌山市)

ライオンは玄関前に鎮座していた。難波橋は西側の2体が口を開き、東の2体は閉じているが、こちらは口を開けた姿。桑原敏幸支配人は「地元では有名な像。大阪に同じ像があると聞いて驚く人もいます」。船越さんの助言に従い台座を確かめると「石匠 浪華 熊澱南」と銘が刻まれている。

難波橋の像は1915年(大正4年)、架橋と同時に設置された。兵庫県三田市出身の彫刻家、天岡均一が原型を作り、石材建築の権威だった石工の熊取谷力松が彫ったとの記録が残る。船越さんは「『熊澱南』は力松の号のはず。『澱』は淀川で、淀川の南の石工の熊という意味でしょう」とみる。

北浜と和歌山の像は大きさも彫った人も同じらしい。つながりが見えてきた。歴史をたどると「がんこ和歌山六三園」の前身は戦前、大阪で活躍した相場師の松井伊助が築いた別荘「六三園」。伊助は和歌山出身で「北浜太閤」とはやされた大立者だった。

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桑原さんにゆかりの人物を紹介してもらう。伊助の娘婿のおい、松永庄三さんは「(伊助の娘から)難波橋の像と伊助は直接の関係は無いと聞いたことがあります」。「六三園」の造園は19年ごろで難波橋の数年後。初めから5体作り、うち1体が和歌山にきたわけではなさそうだ。

では作者との縁はなかったのか。2013年、三田市で「天岡均一展」を企画した丹羽建蔵さんが均一の娘に聞いた話を教えてくれた。「均一も伊助も西宮に住み、家族ぐるみの付き合いでした。天岡家の居間には難波橋の像の小さな原型が飾られていたそうです。伊助が目にする機会もあったはず」

ついに一つの仮説にたどり着いた。功成り名遂げた伊助は故郷に錦を飾ろうと立派な別荘を構える。懇意にする均一に頼み、力松の協力も得て、難波橋と同じライオン像を作らせ手元に置いた――。

大正後期から昭和初期の大阪は「大大阪」と呼ばれ、東京をしのぐ日本経済の中心だった。中でも難波橋かいわいは伊助が大勝負を繰り広げた場所。そこに立つ百獣の王に、自らの姿を重ねたのかもしれない。

難波橋が完成したのはちょうど100年前。和歌山の「末っ子」も含め、5体のライオンは長年の風雪に耐え続ける。その勇姿を眺めていると、景気の荒波に立ち向かうなにわの経済人のシンボルにも思えてきた。

(大阪・文化担当 田村広済)

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