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もっと関西 歌手は売れず作曲で大賞 作詞作曲家 中村泰士さん(私のかんさい)
大阪は「人の都」歌で発信

2017/8/30 17:00
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 ■ちあきなおみさんの「喝采」や細川たかしさんの「北酒場」などのヒット曲で知られる作詞作曲家の中村泰士さん(78)は奈良県王寺町出身。音楽と共に育った。

 なかむら・たいじ 1939年、奈良県王寺町出身。57年、美川鯛二として歌手デビュー。「喝采」(72年)と「北酒場」(82年)の作曲で日本レコード大賞を2度受賞。2003年には歌手として再デビューを果たした。

なかむら・たいじ 1939年、奈良県王寺町出身。57年、美川鯛二として歌手デビュー。「喝采」(72年)と「北酒場」(82年)の作曲で日本レコード大賞を2度受賞。2003年には歌手として再デビューを果たした。

中学で吹奏楽部に入り、担当はトロンボーン。だけどメロディーラインが吹けないから面白くない。慰みに家にあった白鍵が鳴らないオルガンを弾いていた。黒鍵だけの「ヨナ抜き音階」は日本の歌謡曲の基本と言える音階だ。歌謡曲作りの原点になったと思う。

奈良の県立高に入ったが、プレスリーが歌うロックに憧れ中退した。佐川満男さんと内田裕也さんのバンドのオーディションを受けたが不合格。その後、内田さんが結成したバンドのセカンドボーカルとして神戸・三宮や大阪・難波のジャズ喫茶で歌い始めた。

1957年、「美川鯛二」として歌手デビュー。上京したが、売れないから誰も曲を作ってくれない。必要に駆られ、作詞作曲を始めた。最初のヒットは園まりさんが歌う「夢は夜ひらく」(66年、作詞)だが、実は低迷していた佐川さんのために書いた詞だった。

レコード会社に売り込んだが「佐川ではダメ」の一点張り。失望した私は音楽を諦め大阪に帰り、兄の歯科医院で技工士見習いをしていた。ある日、ラジオから園さんの歌が聞こえてきた。「俺が書いた詞や」――。すぐ東京へ行き、詞の権利を5万円で売った。マンションの頭金と中古ピアノに充て曲作りを開始。再び佐川さんのために「今は幸せかい」(68年、作詞・作曲)を書き大ヒットした。「喝采」(72年、作曲)と「北酒場」(82年、同)で2度、日本レコード大賞を受賞した。

 ■95年に奈良県知事選、96年に衆院選(大阪3区)に出馬(いずれも落選)。97年には大阪に事務所を開き、音楽活動を始めた。

来場者が歌い手となる「1万人の歌謡曲」をプロデュースした

来場者が歌い手となる「1万人の歌謡曲」をプロデュースした

関西のテレビ番組のレギュラーが増え、地元への思いが強くなった。地元の素晴らしい文化や歴史を、アジアの一員という広い視点で継承していくべきだと思い至り、政治を志した。落選し自信を失ったが、応援してくれた人のために、自分にできることは音楽しかないと気を取り直した。

音楽業界は東京中心で、大阪に拠点を置くことは不安だった。しかし振り返ってみると「今は幸せかい」は最初に、大阪でキャンペーンを始めたのだった。これが当たって以降、レコード会社はまずラジオなどで大阪の人に聞いてもらい、評判が良いと全国発売するようになった。今はレコード会社やプロダクションの力が弱くなり、関西から全国ヒットという波を起こしにくくなっているが、歌謡曲が好きな人は大勢いる。発信力はまだある。

 ■今年4月、大阪城ホールで来場者も歌う音楽イベント「1万人の歌謡曲」をプロデュースした。

歌好きのおっちゃんの一人として、皆で歌いたいという思いが一番。プロ野球ファンが球場帰りの居酒屋で勝った負けたを語るように、来場者がカラオケに行って歌えば街の活性化にもつながる。また、大阪でおもろいことをやっていると話題になれば、関西から歌謡曲を発信する一つの流れを再びつくれるのでは。今後も続けていきたい。

関西、大阪は「人の都」だと思う。商店街に行くとおっちゃん、おばちゃんにキャラクターがあり、表現が違い、売り方も様々だ。その人たちを応援しているのは、誰もが口ずさめる歌謡曲だろう。音楽があれば人は生き生きして、街も活気づく。経済界には是非、音楽を応援してほしい。

(聞き手は大阪・文化担当 西原幹喜)

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