2019年9月20日(金)

大阪中心部、寺もないのに鐘楼?(謎解きクルーズ)
町人の時報 平成の街に響く 「釣鐘町」の由来に

2015/8/29 6:00
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オフィスビルやマンションが立ち並ぶ大阪・高麗橋付近を歩いていると「ゴーンゴーン」と鐘の音が聞こえてきた。音がする方へ向かうと立っていたのは15階建てのマンション。前に鐘楼があり周りには「釣鐘町」の町名表示があった。こんな都心で寺も無いのになぜ釣り鐘だけがあるのか。

鐘楼の説明板には「この鐘は大阪府指定有形文化財です」と書かれている。府教育委員会によると「1926年に現在の府庁舎が建てられた時、屋上の鐘楼に釣られていた鐘」とのこと。

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鐘楼を管理する「大坂町中時報鐘(おおさかまちじゅうじほうしょう)顕彰保存会」の山田利彦・運営委員長を訪ねる。「もともと釣鐘町にあり、30年前に府庁から地元に戻ってきた。115年ぶりの里帰りとなった」と説明してくれた。詳しく話を聞くうちに、実に数奇な運命をたどってきたことが分かった。

作られたのは約380年前。「1634年、三代将軍徳川家光が大坂城に入り、大坂三郷(さんごう)の地租を永代免除した。感謝の意を表そうと惣年寄(町政の筆頭役)らが費用を出し合って鐘をつくり、時刻を伝えるようになった」。大坂三郷は当時の町人街。現在の北区、中央区、西区の一部に当たる。

江戸時代には2時間おきに鐘の音が大坂の町中に響き、町名の由来となった。「度々大火に遭い、3度目の後で隣に高さ約16メートルの火の見やぐらを建てたがまた焼けた。それでも鐘だけはいつも残った」と山田さん。

大坂の街づくりは町人が大きな役割を担って発展してきた。大阪市史料調査会の古川武志調査員は「時報も公共的な事業の一つ。寺や役所ではなく民間の町人が自主的に時を知らせたという点で、実に大坂らしい」と指摘する。

だが明治維新とともに時報は大阪城から打ち出す号砲に変わり、鐘はお役御免となる。1870年に撤去され、近隣の寺や小学校などを転々とした後、府庁に納まった。

それ以降、ほぼ忘れ去られ、鳴らされることもほとんどなかったとみられる。ところがそれが逆に幸いした。太平洋戦争で全国各地の釣り鐘が軍需用に拠出され鋳つぶされる中、免れることができた。

再び光が当たったのは1970年代。郷土史家が存在に気付き、地元有志から返還を求める声が上がる。大手殺虫剤メーカーや鉄工会社社長らが資金提供し、地主から無償で土地の永代貸与を受けて現在の鐘楼を建設。85年、6月10日の「時の記念日」に府庁から移され、350年前と変わらぬ音色を響かせた。

山田さんは「里帰りするまで、私も含め地元でも釣鐘町の由来や鐘の故事を知らない人が多かった」と明かす。

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現在は午前8時、正午、日没時の毎日3回、コンピューター制御で撞木(しゅもく)が動き鐘が鳴る。システムを製造する上田技研産業(奈良市)の上田全宏社長によると「全国2000カ所以上に撞木を納めたが、寺を除けば城くらい。釣鐘町のような場所はほかにない」という。

毎年6月10日と大みそかは撞木を取り換え、手動になる。近くの幼稚園や小学校の子供たちも加わり、地元住民が自ら鐘をつく。特に大みそかは、数百人が代わる代わる午後10時半から午前2時ごろまで鳴らし続けるという。

「『撞』の字は子供が打つと書く。もともと地域の子供たちがつくものだった」と上田社長。山田さんは「街は昔と大きく変わり、今はビルの谷間に埋もれてしまったが、先人がつくった鐘を50年後、100年後も鳴らし続けたい」と力を込める。

(大阪・文化担当 多田明)

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