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上方落語で舞台整える「お茶子」って?(謎解きクルーズ)

おしとやかで ちゃーミング こう座に彩り 往時は若手の母親役

大阪に赴任して初めて寄席に足を運んだら、テキパキと座布団を裏返す着物姿の女性に目がとまった。東京では高座の支度をするのは前座の若手落語家だったはず。不思議そうにしていると、落語ファンの友人が「お茶子さん、て言うねん。上方落語の文化や。華やかでええやろ」と教えてくれた。なぜお茶子は上方だけなのか。仕事ぶりと歴史を探った。

舞台の座布団などを置き換える天満天神繁昌亭のお茶子さん(大阪市北区)

上方唯一の定席(常設寄席)、天満天神繁昌亭(大阪市)に向かうと、昼席の真っ最中。落語家が袖に引っ込むと、品のいい着物をまとった小柄な女性が現れた。座布団を交換、演者の名前が書かれた「名ビラ」をめくり退く。ものの30秒。無駄のない流れるような身のこなしだ。

彼女は元看護師の福島章子さん。結婚を機に退職し、2006年に繁昌亭がオープンすると、この仕事に就いた。「落語家が主役だから、目立ってはだめ。なるべく客席は見ず、存在を消す。最短距離で座布団まで行き、1秒でも早く転換する」ときっぱり。13色ある座布団は出演者の好みや着物の色に応じて、臨機応変に置いていく。

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繁昌亭には20~50代の8人のお茶子がいる。大学生、主婦、役者など様々だ。座布団返し、舞台に置く見台の出し入れなどが主な仕事。アルバイト契約で、月に数回勤務する。繁昌亭の担当者は「着物は自前で交通費も出ない。半ばボランティア。落語が好きで、寄席に関わりたい女性を人づてで探す。情熱のある人ばかり」と話す。

今年9月に開かれたお茶子クィーンコンテスト(大阪市天王寺区)

福島さんは上方落語協会が毎年9月に開く「彦八まつり」のイベント「お茶子クィーンコンテスト」で優勝し、声をかけられた。

イベントを企画した落語家の桂三風さんに話を聞く。応募資格は16~88歳の女性で、「座布団の持ち運びができる健康な方」。「モデルらも応募してくるが、まずは落語が好きなこと。楽屋がパッと華やぐような、ものおじしない明るい人がいい」と言う。

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お茶子の歴史は古い。江戸期には存在していたようだ。道頓堀にあった歌舞伎の芝居茶屋で働く女性が語源で、「お茶屋の子」が縮まってお茶子になったとされる。「上方落語は華やかさが特徴。お茶子さんは舞台を彩り、親しみやすくするのに一役買っています」と三風さん。

1947年、大阪・ミナミに開業した「戎橋松竹」、1000席規模の「道頓堀角座」など、かつての上方には大規模な寄席が立ち並んでいた。華やかな舞台を整える役として、あでやかな女性が好まれたのだろう。

もっとも、「仕事は昔とかなり変わりました」と芸歴50年の桂福団治さんはぽつり。以前は「お母さんのような存在だった」と振り返る。道頓堀角座や新花月などがにぎわっていた60年代の思い出だ。各劇場に50、60代のお茶子が数人いて演者の世話、戸締まりまで、舞台関連の仕事全般を任せられていたという。今はこれらの仕事は上方も若手落語家が担うことが多い。

駆け出しの福団治さんはお茶子にしょっちゅう叱られていた。勤続30年以上のベテランも多く、師匠格も頭が上がらないくらい。「『帯の締め方が悪い』『あんな言い方したらアカンで』とキツく言われた。芸能界の慣習を教わった」としみじみ話す。

昔のお茶子は無給で、観客や演者からの祝儀が収入源だったが、中堅落語家より稼いでいたほど。給料日前にお金を借りる若手も多かったというから、親代わり、マネジャーのような役割も果たしていたようだ。人情に厚い上方独特の職業といえる。

昭和の末から平成にかけ落語人気が下火になり劇場が相次ぎ閉鎖されると、こうした慣習は廃れ、昔ながらのお茶子は姿を消した。

ただ、落語作家の小佐田定雄さんは、「8年前に繁昌亭がオープンして、上方の定席が久々に復活した。お茶子など寄席文化も時間をかけて再び熟していくだろう」とみる。繁昌亭に勤める福島さんは「わたしたちがお茶子の新しい歴史をつくっていきます」とほほ笑んだ。

(大阪・文化担当 佐々木宇蘭)

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