非公開でも研究は続く 仁徳陵の謎を探る(1)
軌跡
全国で20万基以上あったとされる古墳の中で最も大きいのが、宮内庁が仁徳天皇陵として管理する堺市の前方後円墳、大山(だいせん)古墳だ。墳丘は全長486メートル。三重の周濠(しゅうごう)を持ち、一帯に広がる百舌鳥(もず)古墳群の盟主として君臨している。

この古墳群に現存する古墳44基のうち、大山古墳を含め23基は宮内庁が陵墓や陵墓参考地として管理。一般の立ち入りを原則認めていない。
大山古墳では明治初期にあらわになった石室が見つかり、石棺や副葬品の絵図が描かれたことがある。以降、外部の研究者が現地を本格調査したことはないが、それでも古墳研究全体の進展と歩調を合わせて謎の解明がこつこつと続いている。
以前の古墳研究では被葬者が眠る主体部のみが重視されがちだったが、近年は濠や堤、外域まで詳しく調査。情報の蓄積が進む。年代推定の物差しとして重要なのが墳丘に並んでいた円筒埴輪(はにわ)だ。製作技法などの分析が1980年ごろから進み、築造年代がより細かく推察できるようになった。
一方「宮内庁は陵墓の補修に伴った調査の成果などを90年代ころから小まめに情報発信している」と一瀬和夫・京都橘大学教授は指摘する。

大山古墳では宮内庁は94~97年に墳丘を測量・踏査。その際などに見つけた埴輪や土器を公表しており、貴重な研究材料となっている。被葬者については「やはり仁徳天皇だ」との見方を含め今なお諸説あるが「築造年代については近年、5世紀前半を軸に絞られ、議論の幅は50年もない」と白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館館長は話す。
21世紀に入り、百舌鳥古墳群は大阪府羽曳野市や藤井寺市に広がる古市古墳群と併せて、世界文化遺産への登録を目指す動きが活発化。あちこちで保全と活用を目指して調査や発掘が進んでいる。
2013年、ニサンザイ古墳の周濠内で木橋跡を発見。前年には航空レーザー測量で陵墓を含め計82基の精密な3次元図面も作製した。大山古墳では大地震による地割れや地滑り跡が刻まれた墳丘の詳しい状況が明らかになった。
ただ大山古墳はあまりに巨大だ。「専門機関を設けても総合調査には10年、100年単位が必要。まずは課題を一つ一つ解決していくことが大切だ」。白石館長はこう語る。
大阪・文化担当 竹内義治が担当します。