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京都の交差点名に法則は?(謎解きクルーズ)

繁華な通り先に 地域の実情映し変化

平安京の名残をとどめる京都市は、碁盤の目のように道路が走る。その中で交差点は「烏丸七条」のように南北と東西の通りの名前を組み合わせて名付けているのが独特だ。もっとも、この交差点名、南北が先にきたり、東西が先だったりとややこしい。何かルールがあるのだろうか。

まず中心部を南北に貫く烏丸通をJR京都駅から北上してみた。七条通との交差点は「烏丸七条」、五条通は「烏丸五条」だ。ところが四条通では「四条烏丸」と逆になる。さらに北に進むと御池通との交差点は再び「烏丸御池」と南北が先。南北が先の場合が多いものの、京都駅より南には「九条烏丸」「十条烏丸」があり、東西が先にくる交差点名も少なくない。

交差点標識を管理する京都市土木管理課に尋ねると「交差点には周辺の人が呼び慣れた地名を使うのが一般的」との答え。市内で標識の整備が進んだのは1970年代。それまでは行政も交差点名の基準を厳密に定めていなかったため、地元で親しまれていた呼び方を拝借したようだ。

となると、地元の呼び名がどう決まったかが気になる。京都の地名に詳しい龍谷大学の糸井通浩名誉教授に疑問をぶつけてみた。すると、「もとは横(東西)の通りを先に示していました」と意外な答えが返ってきた。

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794年に開かれた平安京は中国・唐の長安にならい「条坊制」を取り入れた。都を縦横の大路で区切り、東西の区画を「条」、南北は「坊」と呼んで地所の表記とした。公文書の順序は「条」が先だ。平安末期には庶民に身近な通りを組み合わせた呼称が増えるが、東西を先に呼ぶ習慣は引き継がれた。

室町後期になって事情が変わる。力を付けた商工業者が通りの両側に「両側町」と呼ばれる町を作る。豊臣秀吉の治世には通りが続々新設され「敷き詰められるように『町』が増えた」(糸井名誉教授)。

両側町には南北の通りを挟んで成立した「たて町」と、東西の通りを挟む「よこ町」があった。経済力などによって町には優劣が生じ始め、交差点の名前は、有力な町が面する通りが先にくるようになった。古代の街づくりで定めたルールが中世に崩れ、東西優先、南北優先が入り交じるようになったわけだ。

謎を解くもう一つのヒントはバス停にあった。東西の目抜き通り、四条通を例にとると、京都市営バスには「四条烏丸」「四条堀川」などのバス停がある。多くは交差点の名前と一致する。

これらのバス停名は1978年に全廃された市電(路面電車)の駅名を引き継ぐ。市電開業は12年で、路線の多くは人通りの多い道に敷いた。停留所名で「四条」が先にくるのは、繁華な道を優先する習わしに従ったとみられる。烏丸通は南北の幹線道だが、繁華街としての存在感は昔も今も四条通の方が大きい。

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調べていくと、ややこしい事例がでてきた。東西の五条通と南北の大宮通が交わる「大宮五条」にある路線バスの停留所名だ。京都市営バスと京都バス(京都市)の停留所は「大宮五条」と南北が先にくるが、JRバスは逆に東西が先の「五条大宮」になっている。

JRバスを運行する西日本ジェイアールバス(大阪市)に聞くと「道幅の広い通りを優先しているのではないでしょうか」。かつての大宮通は市電が通る主要道で、市電駅も「大宮五条」だった。しかし、五条通は戦後に拡幅され、市内でも有数の幹線道路になった。JRバスの前身、旧鉄道省運営のバスが市内で運行を始めたのは1937年。五条通にバス停ができた時期は不明だが、市電よりも遅かったとみられ、停留所名の違いに表れた可能性がある。

結局、交差点名には時代性が色濃く反映されていることがわかった。時代によって南北の通りがにぎわう場合があれば、東西が栄える時期もある。役所が定めたルールを金科玉条のごとく守るより地域の現状を優先する。そんなしなやかさが何とも京都らしい。

(京都支社 浦崎健人)

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