2018年1月18日(木)

京都「碁盤の目」、多くは短冊形?(謎解きクルーズ)
秀吉が都市改造 空き地有効活用

2015/4/18 6:00
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 千年の都、京都には整然とした街区が残っている。そのさまはしばしば「碁盤の目」に例えられるが、地図をよく見ると大部分は正方形というより細長い短冊形だ。一方、市中心部の烏丸通付近には正方形の街区が目立つ。なぜ両者が混在しているのか。

 まず市中心部を南北に走る間之町通を南へ歩いてみる。細長い短冊形の街区が続く。ところが姉小路通とぶつかったところで通りは行き止まり。その南は正方形の街区で、京都府京都文化博物館や中京郵便局などが立つ。

 なぜここで短冊形から正方形に変わったのか。同博物館の学芸員、西山剛さんによると「豊臣秀吉による京都改造の手が及ばず、平安京の名残が残っている街区だから」という。

 天下を統一した秀吉は京都を発展させるため様々な事業に取り組んだ。一つが「天正の地割(じわり)」だ。京の街は8世紀の平安京以来、一辺120メートルの正方形を基本とし、街並みは通りに面して形成されていった。建物は通りに面している方が便利なので、通りに接していない中心部には空き地が増える。

 戦乱が終わった京では人口が増加傾向にあった。秀吉は空き地を住宅や商店に有効活用しようと、正方形を縦に分割する南北の道を敷いた。これが短冊形の街区が多い理由だ。

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 一方、正方形の街区は三条通よりも南側で目立つ。西山さんは「この付近が多いのは理由があります」という。京は1467~77年の応仁の乱で荒れ果てたが、三条通以南の被害は少なく、すぐ復興した。室町後期には「かなりの繁華街になっていた」(西山さん)。

 戦国末期、烏丸三条は「全国から米が集まる流通センター」(同)だった。近くには和装卸大手の千總(ちそう)が1555年に創業。「衣棚町(ころものたなちょう)」など現在の町名からも当時の繁栄ぶりがうかがえる。そんな繁華街を割って道路を通すのは一種の破壊行為になる。「経済力の強い町人を刺激したくなかったか、既に街が発達したので地割する必要がなかったのでしょう」(同)

 京都の歴史に詳しい高島屋京都店の米田庄太郎顧問は中心部の南西に正方形の街区が多い理由を「祇園祭とも関係があります」と指摘する。確かに毎年7月の祇園祭で巡行する山鉾(やまほこ)33基を出している町は、正方形の街区とほぼ一致する。

 祇園祭は応仁の乱で一時中断したが1500年に再興。秀吉の治世は既に現在とほぼ同じ山鉾町の分布になっていた。豪華絢爛(けんらん)な山鉾を保存し、祭りに参加するには町自体の経済力が必要だった。

 祇園祭山鉾連合会の吉田孝次郎理事長は、祇園祭は「自治や秩序の象徴」と強調する。「地割で道を無理に切り開いたら町の秩序や伝統も壊してしまう。天下人の秀吉といえども配慮したのでは」と吉田さんはみる。

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 秀吉が進めた京都改造は地割だけではない。外周を囲む土塁、御土居(おどい)を築き、市街地にあった寺を鴨川近くに強制移転させて東側の防衛線とした。しかし、同じ寺でも生け花の発祥地とされる六角堂(頂法寺)などは創建時から動いていない。

 六角堂は聖徳太子が創建したとも伝えられる。華道家元池坊総務所中央研究所の細川武稔さんは「大勢の信仰を集める六角堂は秀吉の力でも動かせなかったのでは」と推測する。

 京都文化博物館の西山さんは秀吉の街づくりについて「前時代の良いところは残しつつ、変えるべき所は積極的に変えていく。バランス感覚に優れた賢い政治家だった」と評価する。今も京都で秀吉の人気は高い。

 京には時の為政者の足跡が至る所に刻まれている。歩きながら、彼らが思い描いた理想の町並みを想像してみるのも京都観光の楽しみといえるだろう。

(京都支社 古川慶一)

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