西洋文明と融合、新作の糧に 高浜虚子の能、戦後初の復曲上演

2016/1/10 6:00
保存
共有
印刷
その他

俳人の高浜虚子(1874~1959年)が大正初期に初めて書いた能「鐵門(てつもん)」が6月、京都観世会館(京都市)で復曲上演される。初演から100年に合わせた試みで、戦後の上演は初。西洋戯曲を翻案した新作能の嚆矢(こうし)とされるが、長く上演機会がなかった。今後の能の制作や役作りに生かす狙いだ。

「鐵門」の復曲上演に向け、所作の検討をする観世流能楽師の青木道喜さん(中)ら(京都市左京区の京都観世会館)

「鐵門」の復曲上演に向け、所作の検討をする観世流能楽師の青木道喜さん(中)ら(京都市左京区の京都観世会館)

京都を拠点にする観世流能楽師の組織、京都観世会(会長・片山九郎右衛門)が上演に向けて一昨年から取り組んできた。台本は改訂版も含めて数種が伝わる。その中から「粗削りだが創造性に富む」との理由で、初期の台本を基本に据えることを決めた。

「鐵門」はベルギーの劇作家・詩人モーリス・メーテルリンク(1862~1949年)が人形劇向けに書いた戯曲「タンタジールの死」に典拠する。死への恐怖と運命を、人間には開けることのできない鉄の門に象徴させた。

虚子は舞台を西洋から日本に移し替え、城に住む姫と姫に仕える老僕らの物語にした。長野県の善光寺に詣でた僧が、門前の者に案内されて暗穴の道に赴くところから始まる。そこに、老僕の霊が姫の霊と共に現れる。老僕はかつて城に忍び入った死の使いの悪尼(あくに)に姫を連れ去られ、そびえ立つ鉄の門に阻(はば)まれて姫を救えなかった経緯などを語る。

虚子は幼い頃から能に親しみ、シテ方(主役)やワキ方について稽古に励むほど傾倒していた。「鐵門」は1915年(大正4年)12月30日の夜、神奈川県鎌倉市の自宅で創作意欲が突如湧き、2時間半ほどで書き上げたという。

翌16年1月6日には、同好の士たちと14年に建てた鎌倉能舞台で、虚子自身と能楽研究家、実兄の池内如翠らの顔ぶれで試演している。

新作能を書くきっかけになったのは「タンタジールの死」の舞台だった。12年、歌舞伎俳優の二代目市川左団次と劇作家の小山内薫らが演劇の改革を目指して、東京の帝国劇場で上演。虚子はこの舞台を見て、「翻訳劇よりも、能にした方が成功しやすい」と構想を抱いたという。こうした経緯は虚子自身が所感で明かしている。

「鐵門」は近代における新作能の先駆けとなった。虚子は数度改訂し、試演を重ねながら作品を練ろうと考えた。しかし、日中戦争や太平洋戦争の勃発で社会が混乱し、作品は埋もれたままとなる。

今回の監修として加わる能楽研究家の西野春雄氏は「『鐵門』で狂言方の勤める悪尼はセリフがなく、所作だけで演じる設定。こうした演出は前例がなく、新しい能を作ろうとした虚子の意気込みを示している」と指摘する。

出演を予定する能楽師の一人、河村晴道は「埋もれていた作品を上演する場合、解釈をいつも以上に求められて勉強になる」と、復曲の意義を強調する。例えば、生と死の境界を意味する鉄の門は実際に舞台装置を登場させず、観客に想像させる形式で上演する方針。存在しない門があると想定した場所によって、顔の向け方など演じ方も変わってくるからだ。

シテ方の老僕を勤める予定の青木道喜は「老僕は守ろうとする姫を恋慕していたかどうかも含め、観客によって幾通りもの見方ができる舞台が私の理想」と話す。そのためにも「頭で考えるだけでなく、体を使った稽古をつみたい」と意気込む。

西洋の近代文明を意識して最初に作られた能を復曲する作業は、明治・大正期の文人が急速に日本に流入した西洋文明とどう向き合ったかを再確認することにもつながる。今後、優れた新作能を制作するうえでの手掛かりにもなりそうだ。

(編集委員 小橋弘之)

保存
共有
印刷
その他

関連企業・業界 日経会社情報DIGITAL

電子版トップ



[PR]