関西シンクロ界 栄光のルーツは?(謎解きクルーズ)
メダリスト続々輩出 日本泳法 華麗に応用
関西はシンクロナイズドスイミングの有名選手、指導者が数多い。五輪メダリストも続々輩出してきた。昨春、10年ぶりに日本代表「マーメイドジャパン」のヘッドコーチに復帰した井村雅代さん(64)は大阪弁が印象的だ。栄光に彩られた関西シンクロ界の歴史をたどると、意外なルーツが浮かび上がった。
選手時代の井村コーチが学んだのは、今年で創設109年を迎える堺市の「浜寺水練学校」(通称・浜水)だ。「日本のシンクロ発祥の地」ともされる浜寺公園に向かった。
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松林が広がる広大な公園の中に大阪府営浜寺公園プールがある。浜水はここで毎年7~8月に期間限定で開校する。記者が訪れた5月下旬はまだオープン前だったが、同校の伊佐美璋子名誉師範(80)が「もともと日本泳法を教える学校として創設されたんですよ」と教えてくれた。
女性の教育に熱心だった浜水は1925年、女性スイマーが笛や号令に合わせ日本泳法を使って集団で泳ぐ「楽水群像」と呼ばれる演技を始める。50年には宝塚歌劇団の作曲家が書いた音楽で演技をしており、「楽水群像が日本のシンクロの原点になった」。
シンクロは30年代ごろから米国を中心に盛んになり、50年代には国際大会も開かれるようになる。楽水群像は競技というよりショーの要素が大きかったが、浜水は50年ごろにはシンクロの研究を本格的に始めていたという。

54年7月、在日米軍を慰問するため来日した米シンクロチームが東京で演技を披露。楽水群像のメンバーらは上京して鑑賞した。「水中のバレリーナのようで美しかった。自分たちもやってみたいと思った」と伊佐美さんは振り返る。大阪に戻るなりシンクロの猛練習を始めた。
当時、苦労したのが練習場所の確保。前年の水が残るプールを借りて「アメンボと一緒にドロドロになりながら練習したことも」。浜水師範で、後に国際水泳連盟シンクロ委員を務めた故高橋清彦氏が府内の自宅庭に専用プールを建設し、ロサンゼルス五輪での銅メダル獲得につなげたという逸話も残る。
浜水には今でも毎年約1000人が入学し、日本泳法を含むカリキュラムで授業を受ける。シンクロ部など一部は外部のプールを借りて年間通じて活動している。
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日本のシンクロの土台となった日本泳法は、剣術などと並ぶ武術の一種。日本水泳連盟が毎年大会を開き、13流派が参加している。浜水が伝える「能島流」は紀州(和歌山県)発祥で、南北朝~戦国時代に瀬戸内海で活動した「村上水軍」の流れをくむ。
能島流21代宗家でもある伊佐美さんによると、能島流は両足を回転させる「巻き足」での立ち泳ぎを重視する。偵察のために水面高く飛び上がる「鰡飛」(いなとび)、手の動きだけで浅瀬を泳ぐ「伝馬」(てんま)など多くの泳ぎ方がシンクロの技術と共通しているという。
関西にはほかに、日本泳法「小堀流踏水術」を伝承する京都踏水会(京都市)がある。同会も58年にシンクロをスタート。今も水泳初心者全員に日本泳法を教えており、「瞬発力のある立ち泳ぎが小堀流踏水術の最大の特徴。この基礎があればシンクロにもスムーズに応用できる」(檀野晴一学園長)という。
現在、同会がジュニア世代を育成し、有望選手は井村コーチが率いる井村シンクロクラブに移籍するのが一般的という。同会を経てシドニー五輪銀メダルの立花美哉さんや武田美保さん、北京五輪5位の青木愛さんら多くの有名選手が世界に羽ばたいた。
日本水泳連盟の元日本泳法委員長、山口和夫さん(80)は「初期のシンクロ指導者や審判は日本泳法出身者が中心だった。日本泳法がシンクロを育てたと言っても過言ではない」と胸を張る。
そういえば、シンクロ日本代表は空手や忍者など日本文化に根差した演技構成がお家芸だ。歴史や文化遺産の蓄積が厚い関西には一流選手が育ちやすい土壌があるのかもしれない。来年のリオデジャネイロ、2020年東京五輪での関西出身選手の活躍を今から楽しみに待ちたい。
(大阪社会部 倉辺洋介)