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産業のすそ野を形成 大阪砲兵工廠の遺産(1)
軌跡

2014/8/5付
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戦前の大阪は「軍都」でもあった。大阪城周辺には陸軍第4師団司令部のほか、東洋最大級の軍需工場「大阪砲兵工廠(こうしょう)」があり、終戦直前には学徒動員や徴用工も含め6万人以上が働いていた。1870年(明治3年)の開設以来、工廠の技術や人材、外部への発注が、大阪の鉄鋼、アルミ加工、機械金属加工など多くの中小メーカーの源になった。1945年8月14日、終戦前日の米軍の大空襲で壊滅した工廠の遺産をたどっていこう。

「公園の下を掘ったら、かなりの数の不発弾が埋まっている可能性があります」。工廠研究の第一人者である三宅宏司・武庫川女子大名誉教授に、工廠の跡地に盛り土して整備された大阪城公園を歩きながら話を聞いた。

大阪に軍の中枢や工廠、兵学校を集中しようと考えたのは、陸軍創設に力を注いだ大村益次郎。九州で不穏な動きを見せる不平士族や将来の朝鮮方面への進出に大阪でにらみをきかせるのが適当と考えた。しかし関西視察の際に刺客に襲われ死亡する。事件後、黒田清隆ら東京派が巻き返し集中はならなかったが、東京とともに大きな砲兵工廠(当初は造兵司)が置かれた。

旧幕臣を中心に、フランスやドイツ、イタリアから技術や人材を導入して基礎を固めていく。主に東京は小火器、大阪は大砲や砲弾を生産し、終戦までアリューシャン列島から中国本土、南洋まで兵器の供給拠点となった。

戦争のたびに規模は拡大した。まずは1877年の西南戦争。昼夜兼行でも生産が追いつかず、明治10年代には職工が1000人を超えている。さらに日清戦争から日露戦争。速射砲の砲弾でみると、1会戦で工廠の生産能力の3カ月分が消費されたという。親方制の職工だけでは追いつかなくなり、次第に近郊農村などから見習工を雇う。しかし戦争が終わると、人員を急速に絞った。この急な拡大と縮小が工廠の技術を民間に移転させる最大の要因になる。

部品も外注するようになった。メートル法を使う工廠に対し、民間の工場はまだ尺貫法。ノギスやマイクロメーターの使い方も知らない技術格差があったが、優秀な工員の引き抜き、解雇者の転職などで技術が移り、自ら町工場を開く職工も増えた。工廠は整理整頓に厳しく「機械は武器である」と教わった。そうした技術や経験が町工場に移植されたのだ。

「工場はまず松屋町筋や上町筋に広がり、近郊農村だった門真、守口、寝屋川や片町線沿線にも職工が住み、町工場が生まれた。東大阪の工場集積も元は砲兵工廠が形作ったといってよい」と三宅教授。工廠が大阪の産業を支え、大阪の産業が工廠を支える持ちつ持たれつの関係ができあがった。

編集委員 宮内禎一が担当します。

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