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影響残した幻の建物 阪神間モダニズムの記憶(2)
軌跡

2014/12/10付
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阪急電車が通る前で民家もまばらだった1909年(明治42年)、現・岡本駅の北、六甲山の中腹にインドのタージ・マハルを模したとされる建物が姿を現した。西本願寺宗主の大谷光瑞がつくらせた二楽荘だった。

六甲山の中腹で二楽荘は威容を誇った=龍谷ミュージアム提供

六甲山の中腹で二楽荘は威容を誇った=龍谷ミュージアム提供

大谷は自ら探検隊を率いてインドや中央アジアを調査。二楽荘内部を「印度室」「支那室」などに分け、持ち帰った仏像や経典を公開した。学校を併設し、気象観測所まで設けた。さらには温室を整備し、英国で開発されたばかりのマスクメロンを栽培している。物資の荷揚げ用に、日本初とみられる蒸気式ケーブルカーも備えていた。

龍谷ミュージアム学芸員の和田秀寿さんはいう。「二楽荘は山側開発の先頭を切った。山の上から翌日の天気が晴れなら白、雨なら赤いライトを照らし、予報を伝えた。光瑞は園芸・農業の発展が日本の発展につながると考えてメロンの栽培法を園芸雑誌で公表し、全国から視察が来ていた」。阪神間に園芸ブームを巻き起こしたという。

ただ、二楽荘は竣工の6年後には閉鎖されてしまう。光瑞がカネを使いすぎ、疑獄事件に発展し本願寺宗主の座を追われたことによる。二楽荘はその後、実業家で立憲政友会総裁も務めた久原房之助の手に渡った。十分に利用されないまま32年に原因不明の火事で焼失している。わずかな期間で阪神間モダニズムに大きな影響を与えた二楽荘の跡地は今、別の宗教団体が所有し、部外者は立ち入れない。

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